天皇や后に愛読された「源氏物語」は、下級貴族のあこがれだった
【山本】『源氏物語』は当初、后である彰子のために書き始められました。天皇家や政界トップの人々など、貴族を中心に人気を得ていました。また彰子は物語の豪華な本を作らせて、それを一条天皇と一緒に読むということもしています。これは『源氏物語』の新作でしょう。『源氏物語』は高い身分と教養を持った人々に愛好されました。
1020年頃になると、『更級日記』の作者の菅原孝標女は、義母や姉が『源氏物語』のストーリーを暗記していたと書き残しています。菅原孝標女は父の赴任先である上総(現在の千葉県)にいて物語に枯渇していましたが、そんな彼女に「こんな話があるのよ」と義母や姉が『源氏物語』を語って聞かせる。口伝えでストーリーが広まっているんですね。
やがて菅原孝標女は父の転勤とともに京都に戻り、本物の『源氏物語』を手に入れます。するととたんに没入してしまって、その喜びを「后の位も何にかはせむ」(后の位も、この読書の喜びに比べたら何でもない)と書いています。『源氏物語』は、まだ10代の中流貴族の娘の心も鷲づかみにしたのです。
当時、文芸のなかでも物語というジャンルはランクの低いものでした。いちばん高いのは漢詩文。女性が参加できるものは上から、和歌、日記、エッセイなどの実録物。架空の話である物語は最低ランクだったのですね。でも最低ランクであるはずの『源氏物語』が、天皇や后も愛読する貴族文化の宝物として伝えられていく。あるいは菅原孝標女が、私は夕顔になりたい、やっぱり浮舟も素敵だ、と記しているように、読者が自分を重ねて親しむ。両方の熱狂的な読者によって千年の間、支えられてきたのだと思います。
光源氏の妻・紫の上の後悔は、紫式部の気持ちを代弁しているのか
【角田】『源氏物語』は、読み手がいかようにも解釈できるところがあるように思います。
【山本】そうですね。フェミニズム的な観点に関連してお話ししますと、光源氏に引き取られて彼好みに育てられた若紫が、大人の「紫の上」として人生のほぼ最後のときになって、自分の心の内を長々と振り返る場面があります。やりたいこともできず、言いたいことも言えず、こんなふうに生きてきて、私の人生にどんな楽しいことがあったのだろうか、と紫の上は思うんですね。
これに対して、江戸時代後期、国学者が「これは紫の上の言葉だけれども、作者である紫式部の言葉なのだ」と注釈をつけているのです。江戸時代も男尊女卑が激しく、彼はそうした社会のあり方に意識が働いていて、自分と同じ問題意識を『源氏物語』のなかに見つけたわけですね。
【角田】おもしろいですね。