友人たちがアメリカやヨーロッパを研究するゼミに進む中、日本文化のゼミを選択。「高崎だるまの変遷」というテーマで卒業論文を書き、2012年4月、実家へ戻った。
「勉強は苦手だったので、とりあえず文字数を埋めただけの卒論でした。ただ、『海外に販路を広げた方がいい』『キラキラしたものが好きだからラインストーンをつけただるまを作りたい』ということも書いていて。これ、どちらも実現しているんですよ。意外にいいことを考えていたんですよね(笑)」
父の弟子になる
「大門屋に入らせてください」
「だめだ。どこかの会社で営業成績トップを取ったら認める」
大学を卒業した千尋さんは父の純一さんに弟子入りをお願いするも、すぐには認められなかった。代わりに課題を与えられた。
「とりあえず結果を出そう」と思い、宝石やアクセサリーを販売している高崎市内の貴金属店へ就職。パリピ時代の友人の伝手をたどって高級時計やジュエリーを販売し、半年でトップセールスに上り詰めた。
会社からの引き止めを振り切って退職。父親へ報告し、2013年9月1日より大門屋で働くことになった。手取りは20万円から12万円に激減。好きなブランドのアクセサリーや洋服はほとんど買えなくなった。
ただ、生活が一変してお金に苦しんでいる姿は会う人には見せたくない。これまで通りの姿で振る舞おうとした。
「外で会う人には大門屋の令嬢として見られるんですよ。幸運を招く縁起物を作る以上、お金に困っているような格好はできませんでした。アウトレットで70%オフになったフェラガモの靴を2万円で買って履いていました。あと、貴金属店を退職する時に社割で買った1カラットにも満たないリングをつけていましたね。食費も1日3食で1000円以内に抑えていました。つらかったですね」
怒声を浴び続ける生活
入社した初日から父と娘の関係は師匠と弟子の関係に変わった。
「おはようございます」と挨拶すると「何しにきたんだ!」と返され、だるまの材料を取ろうとすると「触るな!」と怒鳴られた。怒声に怯んでいる暇はなかった。「20代を費やして30代にはトップになる」と誓っていた千尋さんはすぐに手を動かした。
職人として最初に身につける技術は、だるまの下部にヘッタと呼ばれる円形の重しをつけること。見よう見まねで取り組んだが「汚い!」と一蹴された。
「早く覚えないと……」
だるま職人として一通りの仕事ができるまでには少なくても5年がかかると言われている。早く一人前になるために、千尋さんは“スポ根的”な発想で作業時間を約2倍に増やした。
「仕事の時間って8時から17時までなんです。わたしは店の隣にある家に住んでいました。終業後に1時間で食事などの生活に必要な最低限のことを済ませて、18時から23時まで練習すれば早く上達できると思ったんです。1カ月で150時間。1年続けるとかなりの積み重ねになります。希望が見えますよね」
終業後は誰も作業をしていない。「見本がなくても練習はできるんですか?」と聞くと独特な方法を教えてくれた。
「わたしは目で見たものを写真のようにスクショできるんですよ。父や他の人が作ったものを記憶して、その再現を目指して試行錯誤していました」