「かわいげがあるやつだった」島田紳助(68)と関係を結んだことも…20代前半にして“大物芸能人たちの仲間入り”「ガーシー(52)のビジネス手腕」(石戸 諭/Webオリジナル(外部転載)) 『「嫌われ者」の正体』より #1

その交友関係は広く、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳や引退した島田紳助と交友関係を結んだことも…。有名俳優の下半身スキャンダルやタレントの違法賭博など衝撃的な話題を扱うYouTuberとして、かつて名を広めたガーシーこと東谷義和氏。

そもそも彼はどうやって芸能界との接点を持ったのか? 若かりし彼が女性や有力者を紹介する「アテンダー」として成り上がり、転落していくまでを、ジャーナリストの石戸諭氏の新刊『「嫌われ者」の正体:日本のトリックスター』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

有名人に女性を手配する“アテンダー”として夜の街で暗躍していたガーシー。一流芸能人たちとも交流を結んだ、その才覚とは? ©文藝春秋

◆◆◆

ガーシー誕生秘話

アテンダー、暴露、そして政治の世界……。起伏の激しい東谷の人生を波に喩えるなら、その高低差は東谷が身を置いた「裏稼業」の天国と地獄を意味している。

1971年、兵庫県伊丹市に生まれた東谷は、マンションや戸建が並ぶ住宅街の一角で育った。高校教員の父、母と妹の4人暮らしだ。父は兵庫県内の公立高校で校長まで務めた人物で、母は近所の飲食店にパートに出ていた。東谷本人が語るところによれば、後年、父はギャンブルによる借金苦で自死を選んだという。地元で当時を知る人々は口を揃えて「家族の仲は良かった」と語る。第2次ベビーブーム世代が大量に進学する時代である。大阪市、神戸市という二大都市のベッドタウンである伊丹市にも多くの子供が集まっていた。中学の同級生は「彼が目立っていた印象はない」と語っていた。世間を騒がすガーシーが同級生にいた東谷義和と結びついたのはごくごく最近のことだったという。東谷もまた、数多くいる団塊ジュニアの一人だったのだ。

伊丹市内の公立高校から大阪の阪南大学に進学すると、東谷は次第に交友関係を広げ、アテンダーとしての片鱗を見せ始めた。

東谷の大阪時代の遊び仲間で、実家にも行ったことがあるという男性の証言──「ヒガシさん(東谷)と初めて出会ったのは、ちょうどバブルの前後かな。大学のサークルの延長みたいな感じで、大阪や地元・伊丹のヤンチャな若者がクラブに集まって遊ぶゆるやかなグループがいくつかあったんです。僕たちの兄貴分みたいな感じですね。最大の魅力は人を集める力です。女子大生や女の子をすぐに集めて、紹介してくれました」

東谷は大学を卒業後、中古車販売業や板金工場の経営をしながら、夜の世界ではイベントを企画してパーティー券を売り捌く生活を始めていく。毎晩のように大阪のクラブに出入りしながら、着実に人脈を作り上げていった。一度入り込んでしまえば、どこの世界でもネットワークは狭いものだ。入り込むにあたって、最初期の運転資金は大学時代の指導教員に頼った。原資としたのは、この指導教員から借りた100万円だった。