指導教員が取材に語ったところによれば大学時代の講義を受ける態度は決して悪いものではなく、どちらかといえば利発な学生としての印象が強く残っているという。

「講義は要領よくこなして単位を取り、自分のために時間を使っていた。 (卒業した東谷から)事業をやりたいと相談を受けて、貸したのは事実です。彼のお父さんからも電話でお礼をいただいた記憶がある。貸すと言っても無利子無担保なのであげるのと同じ、と考えていました」

指導教員のもとには、その後数年にわたって彼が立ち上げた「マーベラストーキョー」という会社からA4用紙1枚の事業報告が届いたが、ある時から途絶えた。もっとも、事業そのものは好調だったようだ。1995年の阪神・淡路大震災後の中古車需要増加を追い風に、東谷の懐には金が舞い込んだ。大阪・梅田のキャバクラで豪遊し、ギャンブルにものめり込む。こうした派手な金遣いは、そのまま人脈への投資になっていた。東谷が東京に進出したのも、この時期だった。

引退した島田紳助とも交流が…

20代前半の東谷は、大阪を代表する繁華街ミナミのバーで、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳と知り合う。ウマがあったのか田村に誘われるがまま東京に拠点を移し、島田紳助ら芸能人たちとも着々と信頼関係を築いていった。六本木にバーを開くと、山田孝之、佐藤健、三浦翔平といった、のちに彼の暴露の対象となる俳優たちも通い詰めた。

「東京でも、やっていることは大阪時代と変わりませんでしたよ。可愛い女子大生や企業の御曹司なんかを、知り合いに紹介する。その相手が普通の友達から、芸能人になっただけでしょう」 (伊丹時代から東谷を知る知人)

東谷の「アテンド手法」は当初から一貫している。ある番組の収録後に芸能人から女性と飲みたいという依頼があれば、リスト化している女性の連絡先に一斉に送り、時間が合う女性をあてがう。「旅行に行きたい」と言われれば、同伴を希望する女性を選び、航空券やホテルまですべて手配する。パーティーに行きたければ、芸能人たちは指定された場所に行くだけでいい。そこで起きたことは絶対の秘密とする。芸能界を生き延びる秘訣は「顔が広く、口が堅い」ことだ。忠実に仕事をこなす東谷は、圧倒的な信頼を得ていった。やがて、彼は自らに課した掟を自ら破ることになるのだが……。