奥沢駅~田園調布駅周辺で目立つ傾向
マップ(図表4)を見ると、特に東急目黒線の奥沢駅~東急東横線の田園調布駅周辺に流通見込みの中古戸建の戸数が顕著にまとまったところが多いことがわかります。このエリアは、区画道路がグリッド状に整備されており、緑が多くゆとりのある良好な住環境の街です。すぐ近くの自由が丘には、おしゃれなお店やスーパー、飲食店があります。近年、奥沢エリアには、自由が丘のテナント賃料が高いこともあり、個性的なお店や飲食店がこのエリアに出店するケースが増えています。
驚くことに、2030年頃に流通見込みの中古戸建の戸数が顕著に多いエリアは、戦前に宅地開発が始まったところとぴったり重なっているのです。
少し田園調布の歴史をひもといてみましょう。
田園調布は、渋沢栄一が、大正時代、田園都市株式会社を設立したことから始まります。渋沢栄一と言えば、東急株式会社の礎を築き、2024年7月に発行された新1万円札の顔となっている人物です。田園都市株式会社は、東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄株式会社を設立して、目蒲線や東横線を開通させるとともに、その沿線住宅地開発を進めた、鉄道会社による沿線開発の先駆け的な存在でした。
関東大震災により郊外住宅地の評価が高まった
田園調布の住宅地開発については、当時、イギリスの経済学者エベネザー・ハワードが提唱した「田園都市論」を参考に「多摩川台住宅地」という名前で開発が進められました。1923年9月、関東大震災が発生しましたが、このエリアに建てられた住宅に被害がなかったということで、郊外住宅地の評価が高まり、都心から郊外への移転が加速していきました。
こうして多摩川台住宅地の開発が進められていく中で、その周辺(現在の田園調布1丁目・5丁目・田園調布本町など)も、別途、地主などによって宅地開発が進められていきました。田園調布地区に隣接する奥沢地区(世田谷区)でも、田園都市株式会社による農地買収から地区を守り、かつ、近隣の都市化に後れをとってはいけないと、大正15(1926)年に「玉川全円耕地整理組合」が設立され、宅地造成が進められました。その先陣を切って宅地造成に着手し、竣工(1931年)したのが、マップ(図表4)で濃いグレーとなっている田園調布駅と奥沢駅の間あたりです。
こうした住宅地開発の歴史から計算すると、田園調布駅~奥沢駅のエリアは、2030年時点で、入居開始から100年以上経過することになります。要するに、開発当初に入居した世代を第1世代とすれば、その第1世代が他界し、相続で引き継いだ、あるいは購入した第2世代が、2030年頃に平均寿命を迎えることになると読み解けます。