背中を押してくれなかった
私は自著『弱者の勝利学 不利な条件を強みに変える“テレ東流”逆転発想の秘密』(方丈社刊)や『混沌時代の新・テレビ論』(ポプラ新書)で、テレ東の応援をしてきた。ときには厳しくも、愛するがゆえのエールや応援歌を送ってきたつもりである。テレ東は私を育ててくれた「親」のような存在だと感じているからである。そこには感謝しかなかった。
しかし、今回のおこないは、私の「テレ東愛」をすべてぶち壊すようなものだ。「親の心子知らず」ならぬ「子の心親知らず」である。親に見放され捨てられた子どものような気持になった。大好きなテレ東に裏切られたような思いすらしてきた。
なぜ、古巣・テレ東は背中を押してくれなかったのか、なぜ「頑張れ、田淵。応援しているよ」と言ってくれる度量がなかったのか。怒りを通り越して、悲しい気持ちになった。
私は、今回の4つの要望には、以下の2つの問題が潜んでいると考えている。
1.憲法が定める「基本的人権の尊重」を主導するべきメディアが、自らそれを侵害している可能性がある
2.退職者の言論活動妨害をおこない、権利を侵害しようとしている恐れがある
まず1.の「基本的人権の尊重」を侵害しているのではないかということだが、番組のなかで私はテレ東の名誉や利益を損なうようなことは何も述べていない。そんな人間の発言や情報発信に制限をかけたり、注文をつけたりすることは、メディアが個人に「検閲」をおこなっていることに他ならない。
こんな人権感覚だから…
2.「退職者の言論活動妨害、権利の侵害」だが、例えば会社を移籍するような人は、前職の経験を踏まえてキャリアアップをしてゆく。私の場合は、テレ東で身につけたスキルや経験を駆使して大学で映像教育をおこない、同時に映像メディアの研究をして情報発信をしている。
それはいわゆる「生業」である。「昔のことを話したり書いたりするな」と要求したり、「授業でスキルや経験を伝えるな」と強制したりすることは、生活基盤を脅かす行為も同然だ。極めて“ファシズム的”であると言わざるを得ない。
そして今回、最も深刻な問題だと感じたのが、「テレ東の発言だと思われると迷惑」という発想だ。この言葉は、今回私が番組内で発言した「テレビを中心としたメディア全体が考えるべきだ」という問題提起にテレ東は賛同できないということを示している。
「迷惑」の言葉の裏側には「自分はそうは思わない」という考え方が隠されているからだ。「他人事」のようなその考え方は、隠蔽に加担したメディアの一員としてあまりにも責任意識が低すぎないか。しかし、逆に言えば、このようなことをやるような「人権感覚」だからこそ、ジャニーズ性加害問題を隠蔽し、長年放置しても平気だったのかもしれない。