「やっぱり人の命ってのはどう努力したって限りがある。だから…」
健さんが演じたのは、「人生で本当に大切なものとは何か」に気づかされる男の役である。
『あなたへ』がクランクアップしたあとも、健さんが持ち続けた映画への情熱は尽きることはなかった。
「やっぱり人の命ってのはどう努力したって限りがある。だからもう一本映画を撮りたい。とってもやりたいね」
昭和30年代、庶民の娯楽は映画であった。私が小学校へ上がる前、母に連れられて映画をよく観に出かけた。母は中村錦之助(のちの萬屋錦之助)の大ファンで主演映画の封切りを待った。私は美空ひばりが好きだった。
健さんもお二人と共演している。錦之助さんでいえば内田吐夢監督『宮本武蔵シリーズ』の佐々木小次郎役。
ひばりさんでいえば『べらんめえ芸者シリーズ』。健さんにはのちの「死んで貰います」の気配はなく、明るく爽やかな役柄だった。
私は出版社に勤務後、フリーライターで独り立ちした。その直後のこと、健さん取材の機会を得た。喜んだのは映画好きの母だった。
携帯電話がまだ普及していない時代、用事があった時は健さんから自宅にも電話を頂いた。私が不在の時は母が電話に出る。
「お母さん、谷君は親孝行していますか」と、いつも声掛けしてくださったようだ。
「相手に緊張をさせない、やさしさが伝わってくる」と母は感激していた。
戦中、戦後を生き抜いた大正生まれの母が88歳を過ぎた頃、初めて弱音を吐いた。
「脚が痛い」という。それから徐々に一人歩きが危うくなってきた。
私は仕事中心の生活から母の介護を中心に置いた。
前述の映画『あなたへ』が公開された翌年、私は近況報告を添えて、健さんに残暑見舞いのささやかな品を贈った。
毎年この時期になると、健さんはしゃがれ声になる。
夏の酷暑の後は新宿「タカノ」や銀座「千疋屋」からフルーツを贈っていたが、この時は喉に良いと言われる梨を贈ったように記憶する。