竹下登「3つの異論」
『平成維新』以降、私は日本の政治を見つめ続けてきたし、企業経営者との触れ合いに劣らず、政治家とも付き合ってきた。
竹下登元首相に呼ばれて初めて会ったのは平成元年、昭和天皇の喪が明けたその日のことだった。
私が中曽根政権で日米関係のブレーンのようなことをやっていたのを竹下さんは知っていて、「至らぬ者ですが、前任者同様、よろしくお願いいたします」と挨拶された。同席していたのが竹下政権で官房長官を務めた小渕恵三氏で、もともと親交のあった小渕さんから「竹下さんに会ってくれ」と頼まれた。
『平成維新』の原稿は前年11月に竹下さんに送ってあって、その話がしたいということだった。
「これはいいです。私がこれを言ったら皆が抵抗する。だから、先生が是非これを言って下さい。私も仕事がやりやすくなる」
竹下さんはそう言いながらも、3つだけ異論があるという。
1つは英語教育について。「母国語が英語の国の教師が、日本でも英語を教えられるようにしよう」と私は提案したのだが、竹下さんは「それは困る。日本人に教えるのだから日本語が大事だ」という。
何でそんなことにこだわるのか不思議に思って小渕さんにこっそり聞いたら、「竹下さんはもともと中学の英語の先生だったんです。いざとなったらまた教師に戻れるようにということなので、あまり気にしないでください」。
2つ目は郵政改革で、竹下さんは反対だという。
「私が生まれた島根県の小さな山村には国の出先機関は郵便局しかない。私の国に対する思いはあの郵便局を通じて育まれて政治家になったようなものだから」
馬鹿らしくなって途中から話半分で聞いていたので、3つめの異論がなんだったか、いくら考えても思い出せない。しかし、『平成維新』というある意味で思想的に完結している本を丹念に読んで、異論をぶつけてくるのだから、真面目な政治家だと思った。