「搾取」する側に回るのか、「搾取」の連鎖を止めるのか

氷河期世代はそこで大きな選択を迫られる。

今度はそれを使って自分たちがそのスキームを使い「美味しい思い」をする番にありつくのか、あるいは自分たちの世代を苦しめてきた「搾取」の連鎖をここで断ち切り、自分たちだけが痛みを引き受ける形で次世代の“取り分”を残すのか、その選択だ。

「自分たちはひどい目に遭ってきた分、今度は自分たちがその論理でやり返してやる」――という理屈はわからないではないが、しかしその論理の矛先がゆとり世代やZ世代、あるいはいまだ生まれていない将来世代に向けられてしまうのでは筋が通らない。後進世代は氷河期世代を搾取したわけでも迫害したわけでもないからだ。

氷河期世代は2040年代には立派な高齢者層になるが、そのときかれらが、現在と同じクオリティの社会保障や社会福祉の享受を強引に求めれば――人口ボリュームによる発言権の大きさを鑑みれば政治的には理屈のうえでは可能なのだが――若い世代にはすさまじいリソース負担を強いることになる。

自分たちがされてきた「搾取」の論理を、後進の世代にも継承するかどうか。その究極の選択が氷河期世にはまもなく迫られる。

シニアの乗る車椅子を押して窓の方へ移動している女性
写真=iStock.com/west
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「永遠の少年期」に閉じ込められた世代

氷河期世代が「搾取」の連鎖を終わらせる方向、つまりバブル世代以上ではなく将来世代の味方に付いてくれることを個人的には期待しているが、しかしかれらがそうしない可能性が高いとも感じている。

かれらは結婚せず家庭を持っていない人も多く「自分の子どもや孫、あるいはその子孫たちの代まで、この国や社会が安寧に続きますように」という価値観に共感しづらいからだ。かれらのなかに多く含まれる(生涯)独身者は、未来の日本に生きる世代のためを思って政治的意思決定をするメリットがない。「自分が死んだあと」にもずっと尾を引くであろう諸問題に対して、自分が割を食う形で解決の筋道をつなげたいというコンセプトをそもそも抱けない。

断っておくが、責めているわけではない。かれらは世代を継承する「大人」として歴史的連続性のなかに身をゆだねるチャンスを奪われてしまい、いうなれば「永遠の少年期」に閉じ込められてしまっていたのだ。

かれらの少年時代を彩ったコンテンツのリメイク・リブートがいつまでも繰り返されるのもそうだ。いつまでも社会から「少年」のように扱われていることの裏返しだ。かれらが歴史的連続性からはじき出され、自分の人生(≒金銭的・時間的リソースの総和)を「自分だけのもの」として消費しながら生きている・生きざるをえないことを、社会の側が見透かしているから、とりあえず「マーケット」としてだけはアテにしているのである。