お母さんみたいに

仙台の街中を流れる広瀬川。

宮城県宮城第一高等学校(旧・宮城第一女子高)2年生の小林ゆりさんは仙台在住。三陸沿岸や福島県浜通りからも多くの高校生がやってきた「TOMODACHIサマー2012 ソフトバンク・リーダーシップ・プログラム」に参加し、仙台の高校生として何を感じたか。

「TOMODACHIプログラムで学んだのは、震災という点では、仙台ではない地域の子たちのほうが断然考え方が真剣で、大人だということです。わたしは、クラスメイトを津波や自殺で亡くした友だちと話したときに衝撃を受けました。わたしはそれまで震災をあまり現実的に考えていなかったんだと実感しました。TOMODACHIで出合った子たちのように、ほんとうに自然がきれいなところで高校生活を送るのもいいなぁと思いました。のびのびして心が広い子が多かった気がします」

冒頭に書いた「仙台市内における被災の温度差」は、東北全体ではさらに広がる。だが、小林さんは「TOMODACHI~」に参加したことで、その温度差を乗り越える「衝撃」と「実感」を手に入れたことになる。小林さん、仙台の高校生だから訊ける質問をひとつ。仙台で高校生活を過ごすことのメリットとデメリットは何ですか。

「やはり、高校や大学、大手の学習塾が多いことは良いことだと思います。受験に関して、情報量やサポート体制が整っていると思うし、分母が大きいのでレベルの高い人たちも多いですね。それから、やっぱり東北の中では都会なので娯楽が多いですね。メリットでもデメリットでもありますが(笑)」。

高校2年生の小林さんには、仙台は最初から予備校が数多ある街となるが、時間軸を少し長めに取ってみると、この街が30年かけて大手予備校の草刈り場となってきたことがわかる。代々木ゼミナールが1983(昭和58)年に、駿台予備校が1996(平成8)年に進出。2011(平成23)年には四谷学院とSAPIXも仙台校をつくった。全国大手予備校の進出前は地元の文理予備校の寡占下にあったが、同校は河合塾傘下となり、1991(平成3)年に名称を河合塾文理に改称、2006(平成18)年からは河合塾仙台校となった。文理予備校教師の一部は独立し、1989(平成元)年に仙台文理予備校を設立している。

小林さんは医療系に進みたいと考えている。そうなると、なんでもあるように見える仙台も実はそれほど多様性がないとわかる。仙台の常識で「一女」卒業生かつ医療志望者の進路を考えると、この街には東北大学医学部しかないだろう。小林さん、進学の際に、仙台を出ることはできますか。

「できれば出たくはないんですけど、学部の選択肢があまりないので——大学に行くからには、ちゃんと行きたいところに行きたいので、そうしたら県外でもいいです」

クラスの友だちも、県境を跨ぐ意思はあるんでしょうか。

「けっこういます。関東の大学に行きたい子は多いと思います」

将来の志望が「漠然としていて」と話してくれた小林さんだが、将来につながる職業観の「根っこ」になるものがすでにあることは、聞いていてよくわかった。お母さんの話だ。

「母がピアノを弾く仕事をしているんです。母はちっちゃい頃からずっとぶれずにピアノを続けていて、音大も出て、それを極めているのが、すごいなぁと思います。尊敬しているか? そうですね。尊敬してます」

小林さん自身は、40年続けられそうなもの、何かありますか。

「いや、ないです。そんなにずっと好きでいられなかったり、なんか駄目だと思うと、もう諦めたりすると思います。でも、そうやって中途半端なかんじになるよりは、お母さんみたいに極めたほうがいいなあと思います」

こちらのほうでことばを足せば、「極める」ことのできる何か——それを小林さんは探そうとしているのだろう。

次に話を聞いたのは、独得の校風を持つ新しい高校に通う2年生だ。