どれだけ年をとっても「親の承認」が欲しくてたまらない
【菅野】私はいまでも、母に「認めてもらいたい」「ほめられたい」という気持ちがあります。それは罪悪感とはまた違うものなのかもしれませんが、どうすれば解消するのでしょうか。
【斎藤】子どもにとって「親の承認」というのは、何物にも増して価値があるんです。子ども時代に十分な承認を得られなかった子どもは、大人になってからそれを回復するためにものすごいコストをかけますが、それはなかなか叶うものではありません。
【菅野】叶わないですね。「親の承認」っていくら歳を重ねても、欲しくて欲しくてたまらなくて、母の前ではフッと幼少期に還ってしまうんです。
子どもからすると、鼻先に愛情というニンジンをぶら下げられたような状態なんですよね。著書『母を捨てる』では、そんな感情に支配され、大人になってからも葛藤の連続であること、そこからいかに解放されるか、一当事者として描いたつもりです。
【斎藤】逆に言えば、子育て中の親が子どもをしっかりと承認することがいかに“コスパ”がいいか、ということでもあります。承認という比較的少ない労力で、自尊感情という一生ものの資本が手に入るわけですから。それだけ母の存在というのは娘にとっての根幹ですから、母に認めてもらいたいと思うのは普遍的な心理なんです。
【菅野】それは、例えば社会的な承認で代替できるのでしょうか。
【斎藤】男性の場合なら、ある程度は代替できるでしょう。しかし、母と細胞が一体化している女性にとっては、そう簡単には埋められないことが多いように思います。
たとえ痛くても、離れるべき
【菅野】斎藤先生は、「娘が母を捨てるということは自傷行為でもある」とおしゃっていましたが、私も母と決別したあと自傷的になってしまうことがあります。片腕どころか、私自身の半分がもぎ取られたような激しい痛みを日々感じています。
「母を捨てる」ことで、けっして手放しで楽になったわけではない。直後は、むしろ逆でした。のたうち回るような苦しみに襲われた。突然、罪悪感に支配されたり、つねに母のことが頭に思い浮かんだりして、とても苦しかったんです。
だからこそ斎藤先生にお伺いしたいのは、「たとえ痛くても、離れるべきか」ということなんです。
【斎藤】離れることが自傷になるかもしれませんが、あえて近づくことも自傷になってしまいます。そう考えると、エスカレートしないぶんだけ離れたほうがマシなのではないでしょうか。