カスリンとアイオン
伊澤久也さんにインタビューしたのは、岩手県奥州市水沢区のファミリーレストラン。奥州市は2006(平成18)年2月に、水沢市、江刺市、前沢町、胆沢(いさわ)町、衣川村の5市町村が合併して発足した。当時の人口は約13万3000人(現在は約12万4000人)。盛岡、一関に次ぐ岩手県第三の都市だ。人口は市を南北に貫く北上川沿いの平野に集中している。北上川は、平安時代から昭和に至るまで、何度も洪水を起こしている。その洪水は「白鬚水(しらひげみず)」と呼ばれてきた。
《またその昔、白髪、白髭の老人が暴風雨のひと息ついた朝もやの北上川岸辺に杖をついて現れ、おびえる村人に「大水が出るから早く逃げよ」と大声で告げた。この老人のことばを信じて逃げた村人は助かり、信じなかった村人は洪水に呑み込まれてしまった》(高崎哲郎『修羅の涙は土に降る—カスリン・アイオン台風/北上川流域・宮古 大洪水の秋(とき)』自湧社、1998年、p.10)
東北新幹線の水沢江刺駅(奥州市水沢区)の駅前ロータリーに、高さ2メートル弱の水色の標識が建っている。大人の胸ほどの高さに「カスリン台風洪水位」「アイオン台風洪水位」とプレートがある。終戦直後の1947(昭和22)年9月15日、カスリン台風は関東・東北の太平洋岸に沿って北上、豪雨を降らせた。北上川は各所で決壊し、奥州市の南隣、一関の市街地はほぼ完全に水没した。全国で約2000人の死者を出したこの台風は、東北だけでなく関東の利根川も決壊させ、東京の下町を水没させている。
《カスリン台風は「首都水没」という大水害を強(し)いたため、GHQの指令を受けた政府の救助や復旧活動は関東地方に集中しがちだった。東北地方ではこの夏から三度目の大水害だったにもかかわらず、政府とGHQの緊急支援や復旧活動は関東地方に傾き、北上川流域をはじめ東北地方への対応は遅れがちだった。(天皇と首相が直接被災地を視察したのは関東地方だけである)/この行政の対応の遅れが次年秋に再び大水害をもたらす引き金にもなったといえるのである》(前掲書、p.84)
カスリン(Kathleen)台風は、今で言えば「昭和22年台風11号」だが、当時は連合軍気象隊が、合州国軍の慣例に従って英語女性名をアルファベット順に付けていた。翌年9番目の台風がアイオン(Ione)と名づけられたのも同じ理由だ。アイオン台風は9月16日にカスリンとほぼ同じコースを辿り、復旧途上の北上川流域は再び洪水と山津波に襲われる。アイオン台風は北上高地の早池峰山で大規模土石流を発生させ(その跡は今も「アイオン沢」と呼ばれている)、三陸の宮古市街地も壊滅させた。
高度成長期に、北上川水系には多くのダムがつくられ、終戦直後のような大洪水はしばらく起きてはいない。
洪水標識を見下ろすように、水沢江刺駅前には、水沢出身の政治家・後藤新平の銅像も建っている。関東大震災(1923[大正12]年9月1日)の復興を、帝都復興院総裁として率いた男だ。平成の復興庁は震災発生から336日も経ってから設置されているが、大正時代の復興院設置は被災から26日後。後藤の迅速な判断によるものだ。後藤は政治家に転じる前は、内務省衛生局長や台湾総督府民生局長など、官僚として活躍した。その後藤新平の故郷で、今、国家公務員を目指している高校生がいる。