クーデターを起こした黒幕の存在

むろん、この背景に兼家の策略がなかったはずがない。『大鏡』にも、懐仁親王を即位させ、自身は天皇の外祖父として摂政になり、政権を思いのままに動かそうとたくらむ兼家が、息子を使って花山天皇をそそのかしたとの旨が記されている。

このとき兼家はすでに58歳。花山天皇の退位を待っている余裕などなく、事実上のクーデターに踏み切ったものと思われる。狸寝入りをし、安倍晴明を抱き込み、というのはドラマの創作だが、いかにもありそうなことではある。

その結果、天皇を出家させることに成功しただけではない。重用されていた藤原義懐および藤原惟成が事態を知ったときには時遅く、彼らもまた元慶寺で出家した。兼家は花山天皇だけでなく、当面の政敵も排除することに成功したのである。そして、まもなく円融上皇の詔を得て、念願の摂政に就任した。

こうして兼家は、130年ほど前の藤原良房以来2人目の、外祖父としての摂政となって、しばらく栄華のかぎりを尽くすことになった。花山天皇が出家したおかげで兼家が得たものは絶大で、その後、父を超える栄華に浴する道長の時代も、この陰謀劇で天皇が追いやられていなければ、訪れなかった可能性が高い。

だが、じつは、兼家以上に得をしたかもしれない人物がいる。天皇(一条天皇)の母后となった道長の娘、詮子である。

藤原詮子像、東三条院像
藤原詮子像、東三条院像[写真=真正極楽寺所蔵/『国史肖像集成 第5輯』(目黒書店)/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ヒントは陰謀劇の功労者の不可解な出世

繁田信一氏は『『源氏物語』のリアル』(PHP新書)に、次のように書いている。

「実のところ、そんな兼家さえもが、この陰謀においては、単なる手駒の一つに過ぎなかった。剛腕の政治家にして辣腕らつわんの謀略家として知られる兼家も、実際には、その娘の詮子の掌中において、いいように転がされているだけだったのである。考えてもみてほしい。右の陰謀で最も得をしたのは、結局のところ、天皇の母親(母后)となって、さらには准太上天皇ともなった、藤原詮子その人なのではないだろうか」

そう考えられる根拠のひとつは、先述した僧侶、厳久にある。花山天皇の出家を完遂させたのは、道兼がそそくさと逃げ出した後も元慶寺に残った厳久だった。

じつは、彼はこの時点ではまったく無名の僧侶だったが、永延元年(987)5月に兼家が開催した仏事で講師を務めている。花山天皇を出家させてすぐに頭角を現したわけだ。長徳元年(995)10月には権律師となって高僧の仲間入りをした。

ドラマではロバート秋山がふんする藤原実資の日記『小右記』によれば、厳久を権律師に推薦したのは、ほかならぬ詮子だという。続いて、厳久は慈徳寺という寺の別当になっているが、この寺も詮子が建てている。この二つの事例にかぎらず、繁田氏は「彼の目立った活躍の場は、ほとんど常に、東三条院詮子こそを壇主だんしゅとする慈徳寺での仏事であった」(前掲書)と記す。