セックスをすることは「通報されるリスク」を15年間抱えること

「遡及的にレイプになりうる」性質を避けがたく持っていた男女間の性的関係に刑事責任を実装したのが「不同意性交罪」であり、これが今どきの男性にとって女性とのかかわりそのものを回避する強い動機を与えてしまっている。

現代社会の男性にとって、女性とお近づきになりセックスをすることは、その女性から「レイプ犯」として警察に通報される可能性を向こう15年(時効)にわたってゼロにできないこととイコールになってしまうからだ。

セックスというほんの一時の快楽を得るための代償として、その日から15年間、自分の家にある日突然警察がやってきて「あのときあなたが女性と行った性行為は、女性側から同意ではなかったとの申し出がありました」と言われて手錠をかけられるかもしれないリスクがつねに自分に生じることを引き受けなければならない。このため「女性とかかわりを持たず、女性とセックスをしない」という選択をする方がよほど「コスパがいい」と判断する人が一定数現れてしまうのはさほど不自然ではない。

砂漠のアンティークガラス時計
写真=iStock.com/allanswart
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「ちゃんとした人」ほど恋愛市場から撤退していく

残念なことに、女性がぜひとも恋愛・結婚したいと望むであろう社会経済的にも人格的にもすぐれた「ちゃんとした人」ほどこの社会的リスクを深刻に見積もって撤退してしまう。自由恋愛市場には逆にそういう倫理観やリスク意識を持たないタイプの男性、いわゆる「ヤバい人」ばかりが残るという逆効果になっている。

全社会的な「性的同意」の意識の高まりによって、誠実な人ほど女性から遠ざかり「性的同意なんかどうでもいい」と考えてしまうような人ほど市場によく残留させる結果となっているというのは、あまりに皮肉としか言いようがない。

言うまでもないが、この国では男女交際はもっぱら男性側のアプローチをその起点とする。もちろん例外はあるが、男性側がアプローチし、女性側がそのアプローチの可否を判断するという図式が一般的になっている。女性側からアプローチして男性側がそれをどうするか選択するケースがないわけではないが多数派ではない。

むろん女性だって、それとなく好意を持っている男性に対しては、彼が自分に好意を持つようなんらかの「布石」をしかけることはそれなりにある。しかしそれはあくまで布石であって、最終的な意思決定や結果責任を取るフェーズ――つまり「告白」という儀礼に臨む役割――では、やはり男性が主導的な役割を果たすことになりがちである。男性が率先してこうした「重い」アクションを引き受けることは、ことこの国においては「男らしさ」の一部として肯定されてきた。