高校時代の山本がプロテストを受けた際、「ドラフトで指名する」と声をかけてくれた穴吹義雄が一軍監督に就任したのである。どの世界でも、自分を評価してくれる上司との出会いは人生を変える。オレは拾われたのではなく、評価されて新しいチームに行くんだ。新天地では前向きな気持ちで野球と向きあった。

南海ファンで知られる漫画家の水島新司は遠い親戚にあたり、ことあるごとにメディアで「どんなピーゴロでも全力疾走する。人一倍ボールに食らいついていくのです」と注目選手として山本の名前を挙げてくれた。

32歳で年俸は5000万円を突破

文字通りどん底から這い上がった男は代打から結果を残し、背番号59から29へ昇格。やがて尊敬する門田博光のあとの五番を任せられるようになる。近鉄の6年間でわずか6安打しか打てなかった選手が、84年には115試合で打率.306、16本塁打、守備では1試合3補殺も記録。

85年には自身初の130試合フル出場。プロ10年目の86年にはオールスターMVPと外野部門のゴールデン・グラブ賞を獲得と、一流選手の仲間入りを果たす。それでも、山本は「週刊ベースボール」85年6月3日号のインタビューで「ぼくはファーム出身です」と、ファームが自分を育ててくれたと近鉄での長い下積み時代を振り返っている。

「上司にいわれてきちんと仕事をしたのに、いつまでたっても係長、課長にすいせんしてもらえない。そういう感じだね。すいせんされて場を与えられれば、そこである程度の働きをするんですよ。ちょっと慣れればね。その段階に行く前にまたおとされてしまう」

チャンスさえあればオレだって……。多くの二軍選手たちはそう願うも、ドラフト下位指名組にはそれすらもなかなか与えられないプロの現実がある。

南海からダイエーホークスにチームが生まれ変わると、地元福岡の星として主力を張り続け、南海入団時300万円の年俸は、32歳で5000万円を突破。選手会長にまで選出されるようになった。好物は愛妻が作ってくれる肉じゃが、ホームランを打ってチームが勝った夜にだけ口にするレミーマルタンがささやかな楽しみだ。