開業したばかりの福岡ドームで根本陸夫監督は、山本を当時はまだ珍しかったバントをしない攻撃的二番打者として起用する。94年夏には子どもが学校で可哀想だからと、“ドラ”のニックネームから卒業して登録名を「カズ山本」に。イチローに次ぐ、リーグ2位の打率.317の活躍で年俸2億円に到達すると、阪神・淡路大震災の際には、被災地に1000万円もの義援金を送った。

プロ20年目の再出発

しかし95年は、開幕直後に一塁へ滑り込んだ際に右肩亜脱臼の重傷を負い、打率.201、本塁打0と低迷。オフには球団代表から辛辣な言葉を浴びせられ、退団を決意する。

だが、一度地獄を見たベテランが下を向くことはなかった。元同僚で先輩の佐々木恭介が指揮を執る近鉄に誘われ、テストを受け合格。14年ぶりの古巣復帰を決断した直後の「週刊ベースボール」96年1月29日号のインタビューでは、山本選手といえば82年も自由契約となり苦労から這い上がったストーリーが……と質問され、こう笑い飛ばしている。

「そんな話ウソ、ウソ。みんなの思い込みですって。苦労なんかしとらんて。本当に。今回も、その82年も。苦労とか、そういうのは考え方ですよ、考え方。人生はおもしろかよ、苦しいこともあるけど。僕なんか特に、人が普通なら体験できないことを体験してますから」

大阪に戻り、プロ20年目の再出発。近鉄では、前年2億円の年俸も4000万円+出来高まで落ちた。勝負の96年シーズンは開幕から打率トップを争うほど打ちまくるも徐々に失速。打率は3割を大きく割ったが、野球ファンはその背中に盛大な拍手と声援を送る。オールスターのファン投票で、イチロー、秋山幸二に次ぐ外野部門3位の票を集めるのだ。これが山本にとって初めてのファン投票での球宴選出でもあった。

迎えた96年7月20日、オールスター第1戦、舞台は昨年までホームにしていた福岡ドーム。山本は、6回裏、一死一、三塁という場面で代打として登場すると、初球のストレートを叩き、ライトスタンドへ劇的なスリーランアーチを突き刺す。球場はその日一番の大歓声に包まれ、MVPに選出された背番号92は、お立ち台で涙を流した。なお、この劇弾の直前、「おい、ドラちゃん、代打や!」とベンチ裏で山本に声をかけたのは、全パ監督を務めるオリックスのユニフォーム姿の仰木彬だった。

20年近く前、ほろ酔いで19歳の山本に投手失格を告げた仰木が、今度は野球人生最高の晴れ舞台に、38歳の山本を送り出したのである。

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