「僕はボクシングが嫌いだった」

山根氏によれば、

「親父がボクサー上がりだったから、4、5歳からボクシングをやっていた。僕はボクシングが嫌いだったんだけど」

記者は2度、山根氏の自宅を訪ねているが、階段を上り切った居室の廊下には、リングの上で若い2人のボクサーが対峙する白黒の写真が大きく引き延ばされて飾られていた。写真左下には、

〈1954年 大阪府立体育館〉

と記されている。

この写真について尋ねると、山根氏は「よう聞いてくれた!」と、饒舌に語り出した。

「僕の現役時代です。当時、レオ・エスピノサという人気ボクサーがおって、大阪で東洋太平洋タイトルマッチをやったんや。その前座の5番目の試合に出た。1万人くらい観に来て、観客には力道山もおった。あんな檜舞台は初めて。試合結果? 1、2ラウンドは優勢やったんやけどな、1カ月前から微熱があったせいで、3ラウンド前に棄権した。親父からは『性根が足らん!』と言われました」

山根氏はかつて連盟会長として、元ミニマム級世界王者の高山勝成の東京五輪に向けたアマ転向を拒んだことがあるが、自身がプロボクサーだったのだ。1954年というと、山根氏は当時15歳ということになる。プロのライセンスは16歳からだが、このことについて尋ねると、

「韓国から密航してきたため戸籍がなかったから、誤魔化して15歳から試合をしてました。15歳でええ身体してるやろ? なんでかっていったら、重量挙げしとったから」