「ステータスとしてのオタクが欲しい」

ネット(SNS)のコミュニティにおいては、例えば映画が趣味だから、SNSで他の映画ファンとつながって盛り上がりたいという欲求が生まれた場合、他のオタクと交流を持つためには、まず自分自身がオタクだと思われる必要がある。コミュニティでのコミュニケーションのためにオタク=自分が何者かを示す必要があるのだ。

また、自身は現実社会ではオタクだと思われているけれども、それを保証(証明)してくれるものはないから、他のオタクから認めてもらうことで自信につなげたいと考える者もいるだろう。

このような背景から、ステータスとしてのオタクが欲しい(オタクになりたい)若者にとっては、いかに最短距離で、いかに手間をかけずにオタクになるかがタイパを追求する動機そのものになるわけだ。

ソーシャルメディアの概念
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「他人から認知されたい」という本質的な願望

だからこそ、ファスト映画を視聴したり、動画のスキップ機能を利用したり、ネタバレサイトを見たり、Twitterに溢れる猛者たちの論考や雑学をあたかも自分のオリジナルかのように引用し、知った気になったりする。映画鑑賞の醍醐味だいごみともいえる「初回の感動」を放棄するという非合理的な行動をとったとしても、彼らにとっては、時間をかけてその醍醐味を味わうこと自体が非合理的であり、とにかく省けるものを省いたほうが合理的なのである。

ラーメンを食べる際のコスパ追求の目的は「ラーメンをお得に食べる」という点にあり、目的を達成するには「ラーメンを食べる」必要がある。これを経済学の言葉で言い換えれば、コスパにおいては消費されたモノが消費者に直接効用をもたらす。

しかし、タイパの追求においては、消費したモノが直接効用を生むわけではない。仮にオタクになりたい、何者かになりたいということが目的ならば勝手にオタクを名乗ればいいし、自分はオタクだと思い込んで生きていればいい。しかし、オタクになりたい、何者かになりたいという、一見目的に思える欲求の裏には、「○○ということを他人から認知されたい」という本質的な願望がある。オタクになりたいという願望は、オタクと認知されるための手段にすぎないのだ。