戦争中、ジャズをはじめとする欧米の音楽が「敵性音楽」として弾圧され、笠置は自分の歌を思うように歌えなくなっていた。その只中の1943年6月、笠置は名古屋で一人の「美青年」と出会う。彼の名は吉本頴右(えいすけ)、吉本興業の創業者吉本せいが溺愛する一人息子であり、いずれ後継者になるはずだった。笠置より9歳年下、当時まだ19歳の学生である。そんな吉本の「ぼんぼん」と、当局から睨まれる「敵性歌手」の2人が、やがて恋に落ちた。その恋は戦時下に激しく燃え上がった。日本中が空襲の恐怖に怯える日々を、笠置はのちに振り返って「わが生涯の最良の年」だったと記している。

せいは息子の恋を許さなかった。それでも頴右と笠置は時間をかけて周囲の環境を整えていくつもりだった。頴右は終戦からまもなく、大学を中退して吉本に入社している。早く一人前になり、母に結婚を認めてもらうためだ。また、再び歌手として仕事が増えていた笠置も、結婚を機に歌手を引退する決意だった。

夫の死後、娘を一人で育てることを決意

だが、頴右の病気がすべての計画を狂わせた。頴右は大阪で療養生活を送るものの、持病の肺病が急速に悪化していく。一方、笠置は妊娠が発覚し、東京で身重のまま最後の舞台に上がった。千秋楽を終え、すぐにでも大阪に駆けつけたいが、出産予定日が迫っていて身動きがとれない。笠置は頴右からの手紙を床の間に飾り、瞑目してひたすら祈り続けた。

1947年5月19日、頴右は息を引き取った。笠置が女の子を産んだのは、それから13日後である。その子は遺言で「ヱイ子」と名付けられた。このとき、吉本家がヱイ子を引き取る話もあったようだが、笠置が自分で育てると決めた。後知恵でいえば、その判断は正しかったのだろう。3年後にせいが亡くなり、吉本興業の実権は実弟の林正之助が握ったが、その後、吉本家と林家で諍(いさか)いが起きた。後見人のいないヱイ子が吉本姓を名乗っていれば、そこに巻き込まれていた可能性がある。