※本稿は、プレジデントオンラインアカデミーの連載『自走できる人と組織を作る 最高のパフォーマンスを引き出す野村の言い方』の第1話を再編集したものです。
「答えは自分で探すもの」という信念
人材育成において、野村克也は「教えるな。質問を投げかけよ」と説いている。あるいは、メジャーリーグの格言である「教えないコーチが名コーチ」をしばしば引用したり、「教えるではなく、見つける」と口にしたりもしている。ヤクルト監督時代には、「指導者とは、気づかせ屋」との信念の下、池山隆寛や広沢克己(廣澤克実)ら、円熟期に差しかかりつつあった中心選手の指導を行っている。
これらの発言の根底にあるのは、「答えは自分で探すもの」という野村の思いである。言い換えるならば、「他人から与えられた答えは身につかない」という考えであり、現役時代に体得した自らの体験に基づいている。
野村がまだ若かった昭和30~40年代のプロ野球界では、現在と比較してコーチの数は圧倒的に少なかった。したがって、野村に限らず当時の選手たちは自ら創意工夫を繰り返しながら技術を磨いていた。「これぞ!」と思った選手のフォームを食い入るように見つめ、すぐに真似をして自分のものにしようと試みた。
当時、プロ野球の世界では、技術は「教わるものではなく、見て盗むもの」という考えが一般的だった。先輩たちが試行錯誤の果てに体得した技術に対して、安易に「教えてください」などと口にできるはずもなく、当の先輩たちもまた「商売敵にメシの種を教えられるはずがない」という考えが一般的だったのだ。
しかし、時代は変わった。先輩と後輩との距離は縮まり、コーチの数も圧倒的に増え、かつてのようなギスギスした上下関係は遠い時代の出来事となった。「教える者と教わる者」の対等な関係もあたりまえのこととなった。それでも野村はなおも、指導者の心得として「教えるな。質問を投げかけよ」と説くのである。それは一体、どうしてなのだろう?
ヤクルト・髙津臣吾監督に息づく「野村の教え」
東京ヤクルトスワローズを率いる髙津臣吾監督にインタビューしたときのことである。2020年2月――、野村が亡くなってすぐのことだった。恩師との思い出を尋ねた後、「野村さんから教わったことは?」と質問を投げかけると、髙津監督はこんなことを口にした。
「野村監督は常々、『監督とは気づかせ屋だ』とおっしゃっていました。現在、自分も監督という立場になって思うのは、選手に対して答えを提示してあげることは、意外と簡単だということ。でも、それだと本当の実力は身につかないと痛感しています。課題を克服して技術を自分のものとするためには、与えられた答えではなく、何度も挑戦して自分で見つけた答えでなければダメなんです」
まさに、「野村イズム」が浸透していることをうかがわせる発言である。どうして、彼がこんな思いを抱くようになったのか? きっかけは高津の現役時代の1993年、ペナントレースがはじまる前のことだった。野村は彼を呼び出し、「150キロの腕の振りで遅いスライダーを投げられるか?」と問うたという。
「前年の日本シリーズでヤクルト打線は、西武・潮崎哲也のシンカーに完全に抑え込まれました。それを見て野村さんは『速い球でなくても抑えられるんだ』ということを僕に伝えたかったんでしょう。だけど、出題するほうは簡単ですけど、実際に答えを見つけるのは本当に大変でしたよ(笑)」