元夫は復権し長男は大出世

それから2年後の慶長9年(1604)、数え26歳になった福は、竹千代(のちの家光)の乳母に採用され、江戸城に入ることになった。それに当たって、福は稲葉正成と離縁している(それ以前に離婚していたとする史料もある)。

江戸中期に成立した『明良洪範』には、京都の粟田口に「将軍家ノ御乳母募集 京都所司代板倉勝重」という高札が立ち、それに福が応募したという逸話が記されているが、さすがに怪しい。だれか(『春日局譜略』などによれば、秀忠の正室、江の乳母の民部卿局)に推挙されて、江戸に送り込まれたと考えるのが自然だろう。

本能寺の変の首謀者の娘とはいえ、家柄自体には問題なく、将軍家の嫡男の乳母に欠かせない教養も申し分なかったようだ。また、(元)夫の稲葉正成も、関ヶ原合戦で裏切りの決断がなかなかできない小早川秀秋を説得するなど、軍功が大きかった。竹千代の乳が不足するなかの急募ではあったが、そうしたことが選考の決め手になったものと思われる。

その後の福のめざましい活躍は、『徳川実紀』に「すぐれた豪夾ごうきょうの性質」と書かれた父、斎藤利三から受け継いだものがベースになったのではないだろうか。

まず、前夫の稲葉正成は、家康に召し出されて家臣に採用され、慶長12年(1607)には大名に復帰している。また、長男の稲葉正勝は永井直貞、水野光綱、岡部永綱、松平信綱らとともに竹千代の小姓となり、元和9年(1623)には老中に就任。寛永9年(1632)には相模(神奈川県)小田原で8万5000石を領するまでに出世した。

みずから勝ちとった権力者の座

さらに、元和9年(1623)に家光が将軍になると、福本人が老中をもしのぐ権力を握ったといわれるが、それは家光が将軍になるにあたって、福が貢献したからだろう。

秀忠と正室の江は、竹千代に2年遅れて生まれた国松(のちの忠長)をかわいがり、とくに江は溺愛したとされる。病弱で吃音がある家光に対し、国松は容姿端麗で才気煥発だったというが、秀忠夫妻が竹千代を疎んじた理由は、それだけではあるまい。竹千代は表向きには江が生んだことになっているが、じつは奥女中に生ませた子である可能性がある。

そこで福は、『徳川実紀』などによれば、駿府の家康のもとに赴き、世嗣は竹千代にすべき旨を家康に訴えたとされる。福の持ち場はあくまでも江戸城であり、そこを勝手に離れて直訴したことは、厳しい処罰の対象にもなりうる。だが、それを家康が受け入れたのは、家康自身が長男を世嗣に定める必要性を感じていたこと、そして、福を評価していたことが理由だろう。

こうして福は、将軍の乳母の座を見事に勝ちとった。家光が将軍になって3年後の寛永3年(1626)、福は将軍の私生活の場である大奥の統率権を獲得している。この役は将軍の正室がになうべきものだが、秀忠の正室の江はこの年に没し、家光は正室の鷹司孝子たかつかさ・たかこと別居していた。このため、絶大な権限が福のもとに転がり込んだのである。

徳川家光像・金山寺所蔵・岡山県立博物館への寄贈
徳川家光像・金山寺所蔵・岡山県立博物館への寄贈(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons