日本におけるイタリアの表層的なイメージの横行

おしゃれに頓着が無かったわけではない。フィレンツェに暮らしていた時はブランドの衣料品のセレクトショップで働いていたこともあるし、ファッション誌のグラビア写真を眺めるのも大好きだった。日本から訪れる貿易商の通訳の仕事で、フィレンツェのトルナヴォーニ通りに並ぶ高級ブランド店への出入りも頻繁だった。だから流行については意図せず敏感になっていったというのはある。ただ、私のそうしたファッションへの好奇心はあくまで百科事典的知識としてあるだけで、購買欲とは全く繫がってはいない。

ファッションだけではない。それ以外の側面であっても、日本におけるイタリアの表層的なイメージの横行には未だに違和感を覚えるところはある。イタリアといえば燦々と溢れる太陽の日差しに、明るくて陽気で人情味溢れる人々。お昼には大きなテーブルを家族で囲んでワインを飲みながら盛大な昼食をとり、その後は優雅に昼寝。仕事よりも家族との時間を優先する生活大国。

「いいなあ、イタリア暮らし。ご飯は美味しいし、皆おしゃれだし、明るくて、憧れるなあ」などと呟かれたりすると、脳内アドレナリンの分泌が止まらなくなってしまうことがある。そんな夢の世界の住民のようなイタリア人は、フィレンツェ時代も、そしてイタリア人の家族を持つ現在も、私の周りには存在しないからだ。服装だって、皆がファッションに興味があるわけではない。男性は(日本でもそうだと思うが)身につけるものは服でも靴でもたいていは妻が選んだものになっていく。

イタリアのフィレンツェ
写真=iStock.com/RudyBalasko
※写真はイメージです

日本の男性ファッション誌に出てくるような人は滅多にいない

とはいえ、イタリア人には根本的に、DNAレベルで色彩に対する審美眼が備わっているようには思う。どんな田舎へ行っても、そのへんを歩いていたり、公園にたむろする親父たちは身につけているものなど全く頓着していないようで、何気に良い配色のコーディネートだったりする。

でも、日本の男性ファッション誌で紹介されているようなスタイリッシュなイタリア男性は、そうどこにでも当たり前に生息しているわけではない。私の暮らしているパドヴァでも、たまに日本の雑誌がイタリア人の中年男性モデルを使って紹介しているような、力の入った服装で外を歩いている人を見かけることがあるけれど、そんな出で立ちの男性が通り過ぎれば周りの誰もが一目置き、家族との食事の際のネタにされること必至である。うちの親族であれば「そもそもあの装い一式を揃えるのにお金はどれくらい掛かるのだろう、散財癖がありそうだが、ああいう男性はいい夫になれるのだろうか」というような無粋な会話に発展していくことは確定だ。