価値観を交えて話さない人には、その背骨がありません。ゆえに議論するテーマごとに見れば理屈が通っているようでも、俯瞰すると一貫性がなくて、矛盾があります。議論ごとに、いわゆる「逆張り」をし、論点ごとにそのつど自分の価値観とは関係なく少数派の意見を支持し続ける、ネットの「炎上屋」もその類いです。
このような「炎上屋」的な意見を分析すると、ダブルスタンダードに陥っているように見えることが少なくありません。
死刑制度の議論で見られる典型的なダブルスタンダード
ダブルスタンダード的な意見の1つとして、死刑制度の是非を考えてみます。
死刑制度に反対する意見は、人権の観点からすれば、いかなる理由があろうと、個人が個人を殺めることも、法務大臣が人を殺める決定を下すことも容認できないと考えます。この意見からすれば、日本が、平安時代に約350年間、死刑を停止していた時期に死刑の代替刑として機能した流刑(いわゆる「島流し」)は、当時としてはよい制度だったと考えられます。
罪人をはるか遠方に追放するけれども、殺しはしない。流された罪人は、その地で死ぬまで過ごす可能性も高かったのですが、冤罪の場合など、復活の道が完全に閉ざされていたわけではありません。歴史を振り返れば、後醍醐天皇も源頼朝も処刑されずにすんだからこそ、復活して歴史に名を残しました。
私は、人権主義に人道主義を加味した「人権人道主義」という価値観に依って立っています。憲法の人権主義の背景には「個々の人間の尊厳」への理解があり、人権は決して他者の人権に優越するものではなく、人は等しく平等に扱われるという意味で、誰しもが国から「人道的に扱われる権利」を有していると考えているからです。
私の立場からすれば、死刑は冤罪の可能性をゼロにできず、冤罪の人を死刑にすることの正当性はどのような理屈をもってしても解決できず、先述した復活可能性を閉ざしてしまうことから、非人道的で前時代的な制度だと考えています。もっとも重い刑罰としては、「島流し」の現代版ともいえる「終身刑」が妥当と考えています(終身刑は仮釈放のない無期懲役刑ですが、日本にない制度ですから、刑法の改正が必要です)。
殺人はダメだけど死刑はよい
一方で、日本の世論は現在でも約8割が死刑制度を容認しています。では、その人たちが殺人を容認しているかといったら、そうではありません。
つまり、死刑容認の人たちは、個人が個人を殺めることは許せないけれど、法務大臣が人を殺める決定を下すことは容認する――ということになります。これはある種のダブルスタンダードといえますから、すでに世界の大多数の国で死刑が廃止されているなかで、日本が死刑を存続させるには、より確固とした理由が必要でしょう。