現代日本の大学生はどんな大学生活を送っているのか。京都精華大学准教授の白井聡さんは「いまの大学生を観察していると、ともかく窮屈そうだ。授業をしに教室に行くと、学生はいるのに電気がついていないことがある。自分が率先して電気をつけることで周囲から突出したくないようなのだ」という――。

※本稿は、内田樹、白井聡『新しい戦前 この国の“いま”を読み解く』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

外で何をしたいのかを説明する子供たち
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小学3、4年生頃から「縮こまる」子どもたち

【白井】前にも「子どもたちが萎縮している」という議論はしましたよね。園児たちはみんなすごく伸び伸び元気にやっているけれども、小学3、4年生頃から縮こまるようになって、大学生になると本当に覇気がなくなって萎縮している。その背景には、特に90年代後半から組織文化の中に評価や査定が持ち込まれたことがあると。

【内田】「縮こまる」といういまの白井さんの表現は適切だと思います。2016年に米誌「Foreign Affairs」が日本の大学教育について特集したことがありました。記事は「この四半世紀の日本の大学教育、教育行政は全部失敗した」と総括していましたが、印象に残ったのは、教員や学生に対するインタビューで、大学教育についての感想として、教師も学生も似た形容詞を使っていたことでした。彼らが大学に対して感じることとして選んだ形容詞は三つで、「trapped(罠にかかった)」と「suffocating(息ができない)」と「stuck(身動きできない)」でした。狭い穴の中に押し込められて、身動きの自由がきかず、息が詰まるというのが学生たちの大学生活の身体実感なわけです。

「体育座り」は自分自身を縛り付けている

【白井】いわゆる閉塞感ですよね。

【内田】閉塞感が心理状態というよりほとんど身体実感となっている。子どもたちが身動きできず、ゆっくり息もできないと感じているのは、制度的に管理されているというだけじゃないと思います。子どもたち自身が自分で自分の心身を管理し、抑圧している。

その典型が「体育座り」です。膝を抱え込んで床に座る体育座りは、自分の腕と足を檻にして自分自身を縛り付ける体位です。胸が締めつけられているから深い呼吸ができない。手遊びができない。立ち歩きができない。子どもたち自身が自分の身体を身動きできない状態にしている。竹内敏晴さんはこの「体育座り」を「日本の学校教育が子どもたちに及ぼした最も罪深い行ない」だと批判していました。

体育座りは今の学校教育を身体的に表象していると思います。子どもたちは自分自身で自分の心身を縛り付け、息ができないようにしている。子どもたち相互でも、お互いがお互いの檻に相手を閉じ込めていく。それぞれが囚人でありかつ看守であるという仕方で相互に監視し合っている。教師や親も子どもたちを監視している。だから、彼らが「罠にまって」、「身動きできず」、「息苦しくてたまらない」という身体印象を語るのは当然なんだと思います。