織田家の一家臣にすぎなかった羽柴秀吉は、なぜ台頭できたのか。戦国史研究家の和田裕弘さんは「賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討ったことが大きい。当時の記録で、秀吉は勝家について『主たる強敵と見てこれを大いに恐れていた』と評している。秀吉にとって賤ヶ岳の戦いこそが、『天下分け目の戦い』であった」という――。

※本稿は、和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)の一部を再編集したものです。

豊臣秀吉画像(写真=名古屋市秀吉清正記念館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
豊臣秀吉画像(写真=名古屋市秀吉清正記念館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

柴田勝家は家中の不和を制しきれなかった

清須会議で長浜城を得た勝家は、丸岡城主で養子の勝豊に長浜城を任せた。秀吉との決戦を想定していたのなら別の選択肢もあったはずだが、よりにもよって勝家は養子勝豊に裏切られてしまう。勝豊は、佐久間盛政が養子の自分を差し置いて勝家に重用されていることを妬み、後継者の地位も実子の権六にすげ替えられた気配があり、勝家から心が離れていたと思しい。