信長と利家はやっぱりそういう仲だったのかとも読めるが…

傍証材料となるのは『甲陽軍鑑』である。

ここでは戦場から離脱する上杉謙信の軍勢が武田軍に追撃された時、上杉家臣の甘糟近江守がその撤退を悠々と支えたことで、「謙信秘蔵の侍大将の(中でも)甘糟近江守は、かしらなり」と称えられている。謙信秘蔵の侍筆頭だと記されているのである。

ここでの「秘蔵」は、「とっておきの」とか「いざと言う時まで大切にされた」と解釈すべきものである。秘蔵=特別な関係というのは、たまに使われなくもないと思うが、信長と利家の関係についていえば、しいて男色と結びつける必要はないように思われる。

最後の一文「御意には、利家其頃まで大髭にて御座候。髭を御取り候て、其方稲生合戦の刻、十六七の頃」とあるところを、二人の男色を是とする解釈では、信長が目の前にいる利家の髭を引っ張って、まるでじゃれているように説明するが、原文を見直してみると、違和感を覚えないだろうか。

それまで「利家様、若き時」の話をしていたのに、ここで突然「利家其頃まで大髭」と書かれるのである。信長は目の前の利家のヒゲを引っ張ってはいないのだ。普通に読むならば、高校生ぐらいの少年利家が大ヒゲだったということになる。こちらにしても、おかしい。

この違和感を無視して、次の「髭を御取り候て」だけを取り上げ、信長が利家の髭を引っ張って軽口を叩くシーンを想像すると、「やっぱり二人はそういう仲だったのか」ということになりそうになる。だが、釣られてはならない。

歌川国綱作「佐枝犬千代合戦之図」
歌川国綱作「佐枝犬千代(前田利家)合戦之図」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

史料の文字は「ヒゲ」ではなく「髻(髪)」だった可能性

この「大髭にて」と「髭を御取り候て」に見える「髭」(ヒゲ)の字を、「髭」ではなく「髻」(「たぶさ」、あるいは「もとどり」と読む)と翻刻する資料もある(黒川真道編『日本歴史文庫〈10〉』集文館)。字面はよく似ているが、意味はまったく異なる。「髻」とは頭上で束ねた毛髪(いわゆるマゲ)を前に持っていく髪型のことをいう。

どうやら筆写の段階で間違えられた可能性が高い。「髭」と「髻(あるいは鬘、または髪)」のくずし字は酷似していて判読が難しい。ここに「髭」のままだとおかしかった文章が「髻」に読み替えることで、明瞭なイメージに置き換わる。

つまり利家は少年の頃、「おおたぶさ」だったのだが、16〜17歳でこれを「御取り」になり、月代を入れて元服した──というわけである。信長は、お前は少年だったころからよく我が身を守ってくれたと、その武辺ぶりを褒めたのである。

ここでは信長が「髭」を手に取ったのではなく、かつて利家が「髻」を取った話をしていると見るのが正しい解釈となるだろう。