織田信長が近習として仕えていた森蘭丸や前田利家を寵愛したという通説。『戦国武将と男色』などの著書がある乃至政彦さんは「戦国時代の史料を読むと、信長が蘭丸や利家と男色関係にあったという決定的な記述はなく、美少年だと描かれてきた蘭丸にいたってはその存在すら確認されていない」という――。

美少年の色小姓・森蘭丸は本当に存在したのか

織田信長(1534〜1582)の寵臣といえば、誰もが森蘭丸を思い浮かべよう。『絵本太閤記』には「蘭丸元来聡明英智の美童也けれバ信長公是を深く愛し給ひ」ということが書かれていて、これが一般的な蘭丸像になっていると思われる。

蘭丸(乱丸ともいわれる)については、須永朝彦氏が『美少年日本史』(国書刊行会)にて、次の指摘をしている。

信長公記』や『信長記』にも登場しますが、色っぽい事は書いてありません。逸話らしいものは、『常山紀談』『武将感状記』『志士清談』など、近世初期に成立した武将逸話集には種々掲っていますが、それも機転や武勇に関するものばかりで、美貌だとか「お手が付いた」というような記事は見あたりません。江戸も後期になって出た栗原くりはら柳庵りゅうあんの『真書太閤記』に、漸く「生年十八歳、色白くて長高し」という具体的な記述が見られるが、信憑性は云々するまでもないでしょう。

これでほぼ言い尽くされているように思っている。

なおこれに補足するならば、そもそも森蘭丸(および森乱丸)を称する人物自体、戦国時代当時の史料上に見ることができていないことを付言しておきたい。

月岡芳年『和漢百物語』の「小田春長」(信長)と小姓
月岡芳年『和漢百物語』の「小田春永」(信長)と小姓(画像=ロサンゼルス郡美術館所蔵/PD-LACMA/Wikimedia Commons

本能寺の変で討ち死にした森成利が蘭丸のモデルになった

蘭丸のモデルとされる「森成利なりとし」(1565〜1582)は、信長の家臣・森可成の息子であり、若くして美濃岩村城主となったが、本能寺の変で信長に殉死した人物である。

文書を見ると、「らん法師ほうし」の幼名ようみょうを名乗ったことはあった[『増訂織田信長文書の研究』920、921、922、1093号文書。このうち年次が明確なのは、天正9年(1581)4月20日付の920号文書のみ]。しかし、「蘭丸」や「乱丸」を名乗ったことは確認されていない。中世には「○法師丸」という幼名を多く見かけるので、乱法師は幼名に思われる。

なお、成利本人が「森らん成利」と、実名じつみょうの「成利」に「乱」の一字を冠して署名して、花押を付す同時代の文書が見えるのが、とても目を引く(4月21日付『金剛寺文書』329号文書)。「成利」の実名があり、花押を使っているので、すでに元服済みであることは疑いない。武士は元服したら、幼名を捨てて、仮名けみょうと実名を得るから、幼名と実名を同時に使うことはないのである。

するとこの「乱」は、幼名「乱法師」を略したものではなく、仮名を略したものと思われる。ここから成利の仮名は、「乱太郎」「乱左衛門」「乱兵衛尉」などといった「乱」の一字を冠したものと推定できる。ちなみに信長没年に作られた『惟任退治記』に「森蘭丸」と表記されているというが、研究者が確認する限り、最古本では「森乱」とあるとのこと。そういった研究を反映してか、大河ドラマ「どうする家康」では蘭丸ではなく「森乱」という名前になった。