織田・徳川軍を撃破した勝頼は天下人も狙える勢いに
信長は、2月5日岐阜を出陣し、6日神箆(瑞浪市)に着陣、その後、大井、中津川まで陣を進めた。だが軍勢が揃わず、武田軍の陣所が険阻な山岳地帯だったこともあり、思うに任せなかった。その間にも、武田軍は、明知城を含む織田方の城砦十八城を攻略した。この結果、武田氏の勢力は、濃尾平野の手前に達し、岐阜を窺う情勢となり、さらに奥三河にも広がったため、徳川氏の本拠岡崎城も危うい事態になった。
勝頼は、織田・徳川の要請を受けた上杉謙信が、上野国沼田に出兵したことを知ると、甲斐に引き揚げた。折しも、降雪が激しくなったため、信長は武田軍の追撃を断念したという(『当代記』)。
東美濃と遠江に攻め入った勝頼の攻勢は凄まじく、信長・家康に脅威を与えた。信長は、信玄死去の噂を聞いた直後に記した、「甲州の信玄が病死した、その跡は続くまい」との認識をあらため、上杉謙信に宛てた書状で「四郎は若輩ながら信玄の掟を守り表裏を心得た油断ならぬ敵である。(謙信が)五畿内の防備を疎かにしてでも対処しなければ、武田勝頼の精鋭を防ぐことはできないというのはもっとものことだ」と述べるほどであった。謙信もまた、勝頼が只者ではないと考えていた。
信長は、武田勝頼を滅ぼさなくては天下の大事に繫がると考えたといい、家康も領国を武田に三方から包囲される苦しい情勢下に立たされたのである。
長篠合戦の7年後、勝頼率いる武田氏は滅亡した
天正3年、長篠城攻防戦が勃発する。決戦直前の勝頼書状をみると、彼は自信に満ちあふれ、織田・徳川との決戦に一抹の不安も抱いていない。
勝頼は、信長、家康が顔を揃えた決戦で勝利すれば、武田家中での権威を確立できると考えていたとみられる。それほど、勝頼は一門、重臣層を束ねる権威に欠けていたのであろう。また、敵軍が意外に寡兵だったと誤認した可能性も指摘されている。多数の軍勢を設楽郷の窪地に隠した信長の作戦が奏功したのだろう。いっぽうの武田方は、索敵、諜報不足を露呈してしまったと考えられる。
そして、長篠の合戦で大敗した7年後、天正10(1582)年3月11日、戦国大名武田氏は田野で滅亡した。
殉死した家臣は、勝頼の高遠時代以来の家臣が多く、その他に諏方衆とみられる人物も見受けられ、武田譜代は土屋・秋山兄弟が目立ち、跡部・河村・安西氏と、小山田一族が散見される。しかし、山県・原・内藤・馬場・春日などの上級譜代の縁者は一人もいない。高遠城の奮戦といい、殉死者の構成といい、勝頼はやはり武田勝頼ではなく、どこまでも諏方勝頼としての運命を背負っていたとの印象が強い。