「原罪」や「贖罪」は時代遅れになっている?

【島薗】天国へ行く、神の御許へ行くことを、今は教義的にそのまま受け止められなくなっているのかもしれませんね。もしかしたら、安らぎの中で最期を迎え、安らかに眠る、その安らぎをリアルに感じられるキリスト教に今はなっているのではないかと思います。

【最相】実は『証し』を読んだある司祭から感想をいただいた際、贖罪しょくざい信仰について、「誰かを生贄にして自分が助かろうなんて教義がキリスト教であるはずがない」とおっしゃっていて驚きました。中世のカトリックがどうしても権威を保たなくてはいけない時代に、ユダヤ教の贖罪の信仰をあてはめたものであり、後付けのものであると。本来のキリスト教はそうではないとおっしゃっている。

ウクライナの戦禍を前に、「彼らは罪ゆえに死ぬのであろうか?」と考え、「贖罪信仰を放棄した」と宣言される伝道者の方もいました。もしかしたら、「原罪」や「贖罪」の感覚が時代に合わなくなってきており、キリスト教は過渡期なのではないかと感じたんです。

構想10年、取材6年をかけた長編ノンフィクション『証し』
撮影=髙須力
構想10年、取材6年をかけた長編ノンフィクション『証し』は宗教関係者からも注目を集めている

現在の世界の主流はカトリック保守派だが…

【島薗】一つの方向性ですが、簡単には言えないところでもあります。日本を見ていると、時代に合わせて柔軟な信仰に変化しているように見えますし、環境問題やマイノリティの権利に積極的なグループもあります。しかし世界の現実はそうではない。

現在のローマ教皇は力による抑圧に抗う考え方ですが、カトリックの保守派では女性司祭は認めないという考え方が強いです。アメリカの保守派としては、プロテスタントの福音派がいて、人工中絶は許されないという立場です。彼らは信じる者は救われる/信じない者は救われないの二元論にかなりこだわっており、これが世界的に見れば勢いがいい。

ただ今は勢いのいい福音派もだんだんと柔軟になり、独善性が薄れていく方向になっていくのかもしれません。罪を強調して上から強く指導するような中世型の教会ではなく、人類がもともと持っていた古代の宗教の始原に立ち返るような形になっていくのかもしれない。単に古代に戻るのではなく、中世的なものを通過したものであり、自由と多様性を尊び、だからこそ深いものがあるというような。

では、それがどんな集団として存在できるのか考えると、非常に難しいですね。集団になるとどうしても分裂して「自分たちこそ正しい」と独善的になってしまうものですから。