「わかる」のハードルは上下する

このシーンでは、子どものいる女性が夜泣きに困っていることを、話し相手である子どものいない女性ももちろん知っています。何が問題の焦点となっているかを把握し、共有しているという意味では、子どものいないこの女性もまた「わかっている」のであり、そのことは子どものいる女性だって知っているはずなのです。

森山至貴『10代から知っておきたい 女性を閉じこめる「ずるい言葉」』(WAVE出版)
森山至貴『10代から知っておきたい 女性を閉じこめる「ずるい言葉」』(WAVE出版)

でも、子どものいる女性にとってそれは「わかる」と言うにはほど遠い状態のようです。文字通り休む暇もなく夜中に子どもに起こされることのしんどさ、それが毎日続くことへの絶望感、そういったものを体感していることが「わかる」の意味であると言いたい気持ちは、決して責められるべきではないと思います。

ここですでに明らかになっているのは、何をもって「わかっている」ことにするのかというハードルの高さの設定自体が、会話において決定的な重要性を持っていることです。うわべだけの誰でも知っている程度のことを知っているというだけで「わかっている」と言ってほしくない、それでは私の経験を共有し、それに心を寄せていることにはならない、という気持ちがわくことも当然あるでしょう。

でも、「わかる」のハードルが固定されておらず、上げることができるということは、下げることだってできるということです。ハードルを極端に下げ、ほとんど「知ったかぶり」でしかないようなことについても「わかる」のハードルを超えていることにされてしまうことだってありうるのです。

そんなふうに他人によって「わかる」のハードルを下げられたくない、そう思うときに私たちがとっさにしてしまう防御反応がひとつあります。それが、「○○したことがない人にはわからない」です。ふだんなら「わかる」という言葉に込めないような極端な含みを持たせることで、ハードルを高く固定してしまおうとするわけです。

「どうせ他人にはわからない」だけが支えになるときもある

ただ、この極端さには大きな代償があります。それは、相手の「わかろう」とする努力ではどうにもならない高さにハードルを設定することで、苦しい、つらいといった思いへの共感の回路を遮断してしまうことです。

さらに厄介なのは、あまりにも苦しくつらいときには、「どうせ他人にはわからない」と世間に背を向けることだけが、つらい自分を支えるギリギリの杖のように感じられることもまたある、ということです。苦しい、つらいと思いつつ、それに対する他者からの共感は拒絶する……これではその苦境から抜け出すことがますます難しくなるばかりです。

だからこそ、「わかる」のハードルが上下に動くことと、それに対する私たちの典型的な防御反応をあらかじめ知っておく必要があるのです。

自分のレーンだけがハードルが高い不公平な陸上競技場のイメージ
写真=iStock.com/komta
※写真はイメージです