学生のころ、一部の友人が結核で1年間、休学することがありました。退院してくると、以前より大人になっていたものです。日常性の変化は若者を成長させます。安全安心の社会は、人々の成長を止めようとしているのでしょう。

虫は生涯の友

私の虫の友人2人は小学生時代に結核で1年間休んでいます。その間に友人がいないので、虫を友としたのです。おかげで生涯の友人を得たことになります。

私自身も若年のころには、病気ばかりしていました。だから人との付き合いが苦手で、今もそうです。その代わり虫が生涯の友人になりました。

虫は私の人生にさまざまな慰めを与えてくれますが、積極的な手伝いをしてくれるわけではありません。そこから何かを得ようとするのは、当方の勝手であって、相手の都合ではないのです。

病気とは、人間の問題に自然が勝手に介入してくることです。それで人間のことしか考えていない政治家は錯乱するのでしょう。そんな予定はない、というわけです。

病気と死には人力及び難し…

病気と死はつきものですが、どちらも基本的には人力及び難し、です。秦の始皇帝が最後に不老不死の妙薬を探したのは、政治家としてむしろ当然かもしれません。

日常の病気には、そういう大げさな話は出てきません。ささやかな日常が壊れるだけの話です。この体験をどう生かすか、それがいちばん大切なことかもしれません。

現代社会、とくに都会の日常は、日常自体の継続がその日常を破壊するという、一種の自己矛盾の問題になってきています。だからSDGs(持続可能な開発目標)であり、COP(気候変動枠組条約締約国会議)なのでしょう。

日常を考え直すのは簡単ではありません。病気がその契機になれば幸いというべきです。