AIに任せてしまうなら大学で学ぶ資格はない

もう一度「そもそも」に立ち返ってみたい。学校とは採点や成績をつけることが目的なのだろうか? もちろん違う。

「学ぶ」こと、特にビジネススクールレベルになると「学び」には知識やスキルを「つける」ことと、思い込みや表層的な理解を「はぎとる」ことの二面がある。その大半は授業やクラスメートとのディスカッションから得られる。そして、もしその「学び」の大切さと楽しさを授業を通じて学生と共有できていれば、そのための準備や振り返りを「ChatGPTにやらせる」なんていうもったいないことができるだろうかと思うのである。自分の大切な時間とお金を使って、一番おいしいところをAI任せにするような発想があるとすれば、そもそも学ぶ資格はないし、仮に良い成績を取ったとしても竹光でしかない。ビジネスの本番で本当に切り合うことになったらイチコロである。

その意味でChatGPTの出現は学生にとってはもちろん、教員や学校側にとっても、学ぶとは何か、学校の価値はどこにあるか、そして教員とは何をするべきかといった、なんとなくわかっていると思い込んでいた、あるいはそのポジティブなニュアンスにあぐらをかいていたこれまでに冷水を浴びせることになったのではないかと思われる。もしかしたら騒いでいる多くの学校や教員は、学生がChatGPTを使って宿題をすることに心配しているのではなく、自分たちの仮面がはがされ、「王様は裸だ」とばれてしまうことにあたふたしているのではないかという気すらする。

大学の教室内で男女の学生が同じノートパソコンを見ている
写真=iStock.com/Drazen_
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技術の進歩で学ぶことの価値はなくなるのか

広い意味での学力が重要であることは言をまたない。ただ、「検索がこれだけできるのに、覚える必要あるんでしょうか?」とか「翻訳ソフトがすごく進んできたので、もう英語勉強しなくてもいいのではないでしょうか?」といったもっともらしいが本質を大きく外した質問は学生からもそしてマスコミからもこれまでもされてきたし、堂々と答えてきたのではなかったか?

もう一つは、研究者としてである。限られた個人的な経験から言えば英語での論文の校正はとても便利になった。グラマーはもちろん、言葉遣いに関してもさまざまな示唆が得られる。その意味で先生よりも、翻訳業者(あるいは翻訳者)は泡を食っているだろう。

しかし、先に触れたように、自分の世界を広げ成長をするためには英語は必須である。多くのクロスカルチュラルな「目からウロコが落ちた」経験は教科書を読んだ時よりも、知人あるいはパーティーで初めて会ったような人との何気ない会話から生まれることが多いし、何気ない会話ができない限り友人を作ることは難しいからである。