若者の言葉は乱れているのか。大東文化大学の山口謠司教授は「日本語史的に言うと、必ずしもそうではない。『ら抜き言葉』は、ことばの乱れと批判されるが、実は室町時代に起きた日本語のある変化から生まれたものだ」という――。

※本稿は、山口謠司『面白くて眠れなくなる日本語学』(PHP)の一部を再編集したものです。

古代中国の文字
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「ら抜き」は「ことばの乱れ」か

「会長が来られる」と小耳に挟んだとします。前後のことばがまったくなかったとしたら、みなさんは、このことばをどのように理解しますか?

こんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。

・何言ってるの?
・来ることができるって? 可能ということ?
・尊敬? だったら「いらっしゃる」とか「お見えになる」と言えばいいのに
・ことば遣いが古くさい

一般に「ら抜きことば」と呼ばれるものについては、二つの視点から考えることができます。

ひとつは「ことばの乱れ」です。こう言ってしまったほうが簡単なので、多くの人は、「最近の若い人は」的な批判で片付けてしまいます。

ですが、はたしてそうなのでしょうか。じつは、言語学的な、あるいは日本語史的視点で言うと、この現象は室町時代後期に起こる五段活用の影響なのです。

「可能」と「尊敬」の区別がつかなくなってしまった

現代日本語の「読む」は、

読ま─ない
読み─ます
読む─とき
読め─ば
読め!
読も─う

と「まみむめも」の五段全部を使って活用します。

これに対して、古語は、

読ま─ず
読み─たり
読む。
読む─とき
読め─ば
読め!

と、「まみむめ」の四段しか使いません。

「四段活用」から「五段活用」が起こったのが、室町時代だったのです。

ところで、「る・らる」という助動詞があります。

これを使って「読むことができる」(可能の意味の現代日本語)は、

古語=「読むる」
室町時代以降の五段活用=「読まれる」

「お読みになる」(尊敬、ていねいの意味の現代日本語)は、

古語=「読まる」
室町時代後期以降の五段活用=「読まれる」

となって、混同してしまいます。

このことによって、可能の意味の「読まれる」は、次第に「まれ」の部分が「め」に変わって、「読める」になってしまうのです。

これが「ら抜きことば」が生まれてくる原因だったのです。

室町時代後期から「受身・尊敬・可能・自発」の四種類の意味を持っていた助動詞「る・らる」は、現代日本語の「れる・られる」に次第に変化してくる過程で、「可能」の意味を表す「読まれる」「見られる」「着られる」などが、「読める」「見れる」「着れる」など、「ら抜きことば」になっていくのです。

文法に即した表記で言えば、上一段活用と下一段活用、カ行変格活用の場合に「ら抜き」とされるケースがほとんどだと言えるでしょう。

このことによって「読まれる」「見られる」「着られる」は、聞き手(読み手)にすぐにこのことばは「尊敬」か「受身」だなと判断できるようになるのです。

「ら抜きことば」は「ことばの乱れ」と言うのは、表層的なものの見方でしかありません。