ブランドイメージにとことんこだわる
日本にとって変革の年だった1984年に、春樹は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を書きすすめていました。『世界の終わりと……』は、あくる1985年に刊行され、春樹に谷崎賞をもたらしました。
『世界の終わりと……』は、ブランドイメージという観点から見ると、春樹にとって二重の意味で画期的な作品でした。
ひとつは、春樹がはじめて新潮社から出した長編小説だったという点です。『群像』という、講談社が発行する雑誌でデビューした春樹は、初期三部作(『風の歌を聴け』・『1973年のピンボール』・『羊をめぐる冒険』)も講談社から出版しました。それが、『世界の終わりと……』のあと、春樹は長編小説の刊行元を、意図的に使い分けるようになります。
『ねじまき鳥クロニクル』(1994年~1995年)
『海辺のカフカ』(2002年)
『1Q84』(2009年~2010年)
○講談社から刊行された『世界の終わりと……』以後の長編
『ノルウェイの森』(1987年)
『ダンスダンスダンス』(1988年)
『国境の南 太陽の西』(1992年)
『スプートニクの恋人』(1999年)
『アフターダーク』(2004年)
初期三部作の続編である『ダンスダンスダンス』をのぞき、「作家として勝負をかける大長編」は新潮社、「比較的規模の小さい実験作」は講談社、という傾向が見られます。前回のべたように、春樹は映画や音楽や衣服のブランドイメージに敏感です。出版社にかんしても、文芸書の老舗は新潮社、という意識をもっているのでしょう(ふるくは三島由紀夫が、おなじような出版社の使い分けをしていました)。
『ノルウェイの森』は、春樹の作品のなかでも最大のベストセラーです。にもかかわらず、春樹はあちこちで、
「じぶんの本領を発揮した作品ではない」
という主旨の発言をしています。
「もともとは、さらりとして短いものを書きたかった」
ともいっていますから、「講談社実験シリーズ」にふさわしい地味めの一作が、予定していたよりながくなり、思ってもみないほど売れてしまった、ということなのでしょう。
『世界の終わりと……』が画期的だったもうひとつの点は、谷崎賞をとったことで、芥川賞をうける資格を事実上、春樹がうしなったことです。
芥川賞はごぞんじのように、デビュー十年未満ぐらいの新人作家を対象にしています。いっぽう谷崎賞は、中堅作家の優秀な作品にあたえられる賞です。これをとると、芥川賞の選考委員になる資格を得たことになる、というのが、暗黙の了解になっています。
ほとんどの作家は、芥川賞を受賞するか、候補にノミネートされてから、十数年を経て谷崎賞にたどりつきます。谷崎賞が、デビューしてたった6年の春樹にあたえられたのは、異例の事態でした(そこには、文壇のなかの権力争いがからんでいた、という噂もあります)。
ミリオンセラーを連発し、海外の文学賞をいくつも射とめているのだから、芥川賞をとれなかったことを春樹は気にとめていないだろう――ながらく私も、そう考えていました。
ところが春樹は、『1Q84』に登場する文芸編集者の小松に、天吾とふかえりが合作した『空気さなぎ』について、
「あの本は売れすぎて芥川賞をとれなかった」
といわせています。小松はもともと、『空気さなぎ』で芥川賞をとることに、強い執念を燃やしていました。
小松のえがかれかたは、芥川賞を「卒業」させられて二十年以上を経ても、春樹のなかにわだかまりがのこっていたことを推測させます。考えてもみれば、なにごとにつけブランドイメージにこだわる春樹が、文学にかかわる賞のブランド力を気にかけないはずがないのです。
だれの手に賞がおちるかを、一般マスコミが大きくとりあげるのは、文学賞では直木賞と芥川賞だけです。このふたつの賞をとった作品は、売れゆきも1ケタちがいます。文壇的には、芥川賞より谷崎賞のほうが格は上ですが、春樹にしてみれば、谷崎賞とひきかえに芥川賞を失いたくはなかった、といいたいところでしょう。