新卒者の「雇用市場」を創出したリクルートの功績
投資判断をするのに、ほとんどのリーダーがやるように厳しい財務分析に頼るだけでなく、揺るぎないパーパスの感覚と、社会的影響を持ちつつ利潤を挙げるという願望から進むのだ。ディープ・パーパス・リーダーたちは自分のパーパスの実存的認識に啓発され、常にこの立場に自らを置く。機会と時間さえもらえれば、よきサマリア人をパーパスと利潤にシフトさせる方法を見つけられるという、驚くほどの自信を感じている。
リクルート・ホールディングス社は、メディア、人材派遣、事業支援、広告に子会社を持つ時価何十億ドルもの日本のコングロマリットだ。1960年にリクルート情報を広める雑誌『企業への招待』を刊行し、新卒者の雇用市場を創り出すことで、当初の成功をおさめた(それまでは、日本の大学でトップ級の才能を簡単に採用できるのは大企業だけだった)。
同社は着実に成長し、各種の産業や職能ごとに個別の雑誌を創刊し、重要な社会的課題に取り組むという目標を掲げて新市場に参入した。
日本を揺るがした「リクルート大事件」の余波
しかし1988年は、リクルート社の歴史の新しく、あまり好ましくない章の幕開けとなった。同社は日本の政治経済エリートを震撼させる大スキャンダルに巻き込まれたのだ。リクルート創業者江副浩正は、同社が上場する前にエリート層の有力者たちに自社株を提供したのだった。このスキャンダルは日本中に衝撃を走らせ、主要紙の一面で大きく取り上げられた。これは日本の内閣総辞職につながり、さらに何十人もが辞職して、中には刑事訴追を受けた者もいた。
さらに事態を悪化させたのは経済情勢の低迷で、売上は2割も下がった。それでも同社は切り抜け、1990年代半ばには倒産寸前までいったが(投資の失敗と、インターネット台頭に伴う競争圧力のため)、やがて堅実な成長路線に戻った。
このスキャンダルは、体験者たちに拭い去りがたい印象を残した。「これで会社はおしまいだと思いました。私たち全員がそう感じていました」。元上級執行役員、CHRO(最高人事責任者)、取締役池内省五はそう回想する。