悪いことをする→指導される=注目してもらえる
こうしたやり方をどこで身に付けたのか。家庭でのしつけの問題もあるが、それよりも学校の責任のほうが大きい。「悪いことをする」→「指導される」=「注目してもらえる」という誤学習である。
学校で教師が不適切行為に対して、親切にかまい過ぎた結果である。教師が不適切行為にかまえばかまうほど、教師及び周囲の注目を浴びることができ、その行為がエスカレートするのである。
例えば、全国の荒れた学校の中には「先生をいじめて辞めさせてやった」ことが仲間から称賛されるという恐ろしい慣習が存在する。悪いことをすればするほど、内輪でのステータスが上がる。そうなれば、ますます悪いことをする。「少年院を出たほうが、ハクがつく」といった文言と同じ構造である。もっともその「ハク」が取り返しのつかない重荷になることは、社会に出てから気付いても遅いのだが……。
不適切行為への適切な対処は「意図的無視」が基本である。それは、行為自体を無視するのであって、それをした子供たちの存在を無視するのではない。「あなたのことは見ているよ」というメッセージを送りつつ「周りを妨害するような行為はダメなことだから相手にしない」という態度である。そうすることを、本人含め周りにもあらかじめ伝えておくのである。それをした上で、どういう行動が良かったかを一緒に考え、それができた時に必ずほめて認める。「意図的無視」と「よい行動をほめる」のセットで、子どもは適切な行動を身に付けていける。
なぜならば、「あなたも周りも大切」だからである。「学級の一員として、一緒に良くなる方向へ行く」ということを宣言する必要がある。これがうまくいってないから、「どうせ自分なんて」と気持ちが荒み、問題行動を起こして教員の気を引こうとする。
それに対して、教員が「悪いやつは悪い」という正論・正義を貫いたところで全く解決にならない。そもそも、この「悪い」の定義からして見直す必要がある。学校には「悪い子」というレッテルが、未だに存在している。これは「良い子」の逆である。「言うことをよくきく」「勉強ができる」あたりをクリアしておけば、まあこの「良い子レッテル」を貼ってもらえる。
これを反転させると「言うことをきかない」「勉強ができない」ことが「悪い子レッテル」の入り口となっている。「勉強ができない」こと自体は決して悪いことではない。ただ、これが著しく本人の自己肯定感を下げ、学校を嫌いになる原因となっており、非社会的、あるいは反社会的行為につながることが、各種研究からも明らかになっている。
文部科学省の諮問機関である中央教育審議会答申からも、新たな教師像の資質の一つとして「特別な配慮や支援を必要とする子供への対応」が出ている。
本人の努力とは関係なく、言うことを「きけない」子供や、勉強が「できない」子供が存在するという前提で教えることが明確に求められているのである。つまり、そういった子どもの存在を絶対に無視してはいけない。そこを工夫して誰一人取り残さず導くのが学校の役割である。
筆者が考える学校の存在意義。それは、そもそも子供というものがそのままでは「言うことをきかない」ことが多く社会性を身に付ける必要があり、そのための学びの場こそが学校なのだ。勉強も最初からできる子はいない。だからこそ学び舎が必要なのである。言うまでもなく、子供はメンタルも勉強も未熟である。“困っている子供”が少しずつ成長していけるのが学校というものであり、子供の心を傷つける悪いレッテルを貼る場所ではない。
大暴れする成人式の報道は、その地域の学校教育が失敗だったということを公に晒すことと同義である。