別に親の社会的地位が高くなくてもいい

しかし、そんな目を見張るような素晴らしい女性である必要はないと思う。美智子さまのように女優のように美しいとか、皇后陛下雅子さまのように超一級の頭脳をもっているとかいう必要はないし、親の社会的地位が高くなくてもいい。

キャサリン妃など中流階級の出で、飛びっきり頭がいいわけでも抜群の美人でもないし、ウィリアム王子より半年ほど歳上だが、無理をしない安定したキャラクターで大正解だった。キャサリン妃の母親はかつてエリザベス女王陛下からマナーが悪いと言われ、汚名返上すべく一家が努力して合格点を得たという経緯もある。

婚約や結婚をしたあとでいろいろ批判されるより、事前にマスコミの試練に耐えた人であったほうが結局はいいと思うのだ。

親王4人のお妃を自ら探した貞明皇后

日本のお妃はこれまでどのように選ばれてきたのか、ここで振り返ってみたい。

明治33年(1900年)、結婚の儀に臨む九条節子さん(写真=宮内庁/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
明治33年(1900年)、結婚の儀に臨む九条節子さん(写真=宮内庁/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

大正天皇の時は、最初、才色兼備の誉れ高かった伏見宮禎子さちこ女王が内定したが、健康に問題あるとして、いかにも健康そうで性格も良い九条節子さだこ(のちの貞明皇后)が選ばれた。

この選択は大成功し、病弱な大正天皇をよく支え、皇室のいわば女将さんとして辣腕らつわんを発揮した。裕仁親王(のち昭和天皇)をはじめとする4人の健康な親王を得て、それぞれのお妃選びは自ら学習院へ授業見学に通い、候補者を探された。このとき久邇宮良子ながこ女王(のちの香淳皇后)もお妃の有力候補となり、結果的にも非常に的確だった。

久邇宮良子女王(後の香淳皇后)。当時19歳(写真=『昭和の母皇太后さま』光文社、2000年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
久邇宮良子女王(後の香淳皇后)。当時19歳(写真=『昭和の母皇太后さま』光文社、2000年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

取っ払われた「華族=学習院ルール」

上皇陛下の時は、常磐会(女子学習院の同窓会)会長だった松平信子(秩父宮妃殿下の母)が二人の候補を推薦したが、一人には遺伝的な問題があり、残ったのが堀内詔子前ワクチン担当相の伯母にあたる林富美子さんだった。

松平氏は守旧派といわれるが、林さんは大名とか公家でなく、長州出身の伯爵家出身で父親は著名学者、母親は牧野伸顕(大久保利通の次男)の孫で頭脳、容姿ともに優れていたから誰しも納得させられる選択だった。ところが、林家は宮内庁から打診があるや、すぐに見合いさせ三井家に嫁がせた。のちに若葉幼稚園の園長となった三井富美子さんである。

お妃捜しは暗礁に乗り上げ、当時皇太子だった上皇陛下が「私は結婚できないかもしれない」と漏らされるようなことになったので、教育の最高責任者だった小泉信三氏は思い切って範囲を「華族=学習院出身」以外に広げた。そのなかで、それ以前に殿下とお会いになっていたが、お妃候補とは想定されていなかった美智子さまが浮上し、お二人の婚約をまとめ上げた。