張さんは「すでに中国は大陸を実効支配していましたが、『いつかは国民党が中国共産党に替わって大陸を統治し、祖国は一つになるだろう』という淡い思いを抱いていました」と振り返る。

1970年代は台湾にとって厳しい時代の始まりだった。国際社会が新中国を支持するようになったのだ。1971年10月、第26回国連総会は「中華人民共和国が国連における中国の唯一の代表」とする「アルバニア決議」を採択し、中華民国は国連から追放された。翌72年、日本は中国と国交を正常化させると、台湾は日本を非難し断交した。さらに1979年には、米中が国交を樹立させ米台が断交。その結果、台湾はアジアの孤児となっていった。

古い建物が温存されている台北市内
筆者撮影
古い建物が温存されている台北市内

目の当たりにした「遅れて貧しい」中国の姿

1977年まで台湾にいた張さんは、国民党政権のもとで教育を受けた。当時、「歴史」の授業で学んだのは「中国の歴史」だった。台湾には先住民に始まる歴史があるが、大陸からの漢人の移入も進んだ。17世紀以降には儒教が伝わり、科挙の受験者も増加した。

「当時、私は中学生でしたが、祖国の歴史を学ぶことは当然だと思っていました」と張さんは回想するが、そこには“中国人としてのルーツ”もあった。

張さんがそう思う背景にはもう一つ、「遅れて貧しい中国像」があった。1960年代から急速な経済発展を遂げた当時の台湾の人々からすれば、人民公社を中心とした中国の人々の生活はあまりに貧しかった。国民党が統一して建て直せば、中国の同胞の生活は上向く――。当時の台湾の人々は中国をこのように見つめていたという。中国は、文化大革命(1966~76年)で大混乱に陥っていた。

“統一”よりも“独立”を望むように

1980年代に入ると、台湾は「アジアの四小龍」(台湾、香港、韓国、シンガポール)の一つとしてさらに飛躍的な発展を遂げた。さらに1990年代になると、台湾は独裁体制から活力ある民主主義へと変貌を遂げ、台湾独自のアイデンティティが芽生えるようになっていた。一方で中国は、まだ“眠れる獅子”の状態にあった。

コロナ前は商売も活況を呈していた
筆者撮影
コロナ前は商売も活況を呈していた

1988年、国民党の李登輝氏が台湾人として初の中華民国の総統に就いた。李登輝氏は「中国と台湾は国と国との対等な関係だ」とする「二国論」を発表すると、中国は李氏を「台湾独立分子」だとして批判した。

この頃、台湾では、中国共産党が大陸を実効支配しているという現実を直視する機運が強まり、「中華民国による統一の夢」は徐々に薄れていた。一方で、「『台湾省』と呼べば、中国に中央政府があることを認めることになる」という理由から「台湾省」と呼ぶことに抵抗を持つ台湾市民も出てきた。