孤独→怒り→絶望→社会を震撼させる事件へ
もちろん、ひと時の孤独に耐える強さは不可欠だ。交遊は広ければいいものでもないし、同調圧力に負けて嫌な人間関係を続ける必要はない。しがらみに縛られることのない「自立した生き方」は賞賛されるべきであっても、それは「孤独な生き方」と同義語ではないだろう。
孤独の行き過ぎた礼賛・美化は、孤独な人が、その気持ちを抑え込み、声を上げにくくなる、という深刻な副作用を生む。不安で寂しい思いを押し殺し、蓋をして、日本人お得意の「我慢」でやり過ごそう、と号令をかける孤独推奨ビジネスだが、残念ながら、「孤独の身を切る辛さ」はそうやって、抑え込めるものではない。
耐えきれなくなった人が「孤独救済ビジネス」に陥るパターンもあるし、やがて、怒りに変わり、絶望に変わり、社会を震撼させるような暴発へと発展するケースも今後はどんどんと増えてくるであろう。孤独推奨ビジネスと孤独救済ビジネスはある意味表裏一体なのだ。
誰もが自分を守ることだけに夢中になった「一人要塞」だらけの未来は決して生きやすいものではないはずだ。冒頭のマーシー氏はこうも言っている。「自分たちのことばかりに目を向けるのではなく、他者を癒すことで、孤独は癒されるものだ」。孤独を真に癒すのは、「孤独でいいんだ」というマッチョな精神論ではなく、善意ある他者の存在だ。誰もが誰かに手を差し伸べ、誰かの孤独を癒す存在になれる。
孤独は他の誰かの問題ではない。誰にでも、いつでも訪れる可能性のある「全国民」の課題である。「いざとなれば、誰かが支えてくれる」「一人であってもひとりぼっちにはならない」。共に支えあう社会づくりに向けて、真剣に考えるべき時が来ているのではないだろうか。