フィクションと現実が区別できない人たちなのか

小説家の村上春樹は、オウムに入っていった人は小説を熱心に読んだ経験がなく、それで現実とフィクションの区別がつかなかったのではないかと語っている。

オウム真理教に帰依した何人かの人々にインタビューしたとき、僕は彼ら全員にひとつ共通の質問をした。「あなたは思春期に小説を熱心に読みましたか?」。答えはだいたい決まっていた。ノーだ。彼らのほとんどは小説に対して興味を持たなかったし、違和感さえ抱いているようだった。人によっては哲学や宗教に深い興味を持っており、そのような種類の本を熱心に読んでいた。アニメーションにのめり込んでいるものも多かった。
言い換えれば、彼らの心は主に形而上的思考と視覚的虚構とのあいだを行ったり来たりしていたということになるかもしれない(形而上的思考の視覚的虚構化、あるいはその逆)。
彼らは物語というものの成り立ちを十分に理解していなかったかもしれない。ご存じのように、いくつもの異なった物語を通過してきた人間には、フィクションと実際の現実のあいだに引かれている一線を、自然に見つけだすことができる。その上で「これは良い物語だ」「これはあまり良くない物語だ」と判断することができる。しかしオウム真理教に惹かれた人々には、その大事な一線をうまくあぶりだすことができなかったようだ。(村上春樹「東京の地下のブラック・マジック」『村上春樹雑文集』新潮文庫)

これは、私の実感と違う。

私の場合はオウムの信者に接したことはほとんどなく、その後継団体のアレフの信者・元信者と、私がいた教団である親鸞会の話が中心になるが、彼らは小説を読まなかったどころか、平均的な人たちよりもずっと読んでいたと感じる。

アレフの場合は教団に入ると小説は読まなくなるのだが、親鸞会の場合は学生の拠点の本棚にはたくさんの小説があり、私自身先輩からよい小説を紹介されてむさぼるように読んだ。

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そもそもオウムに入った人は、アニメやSFが好きな人が多かったと報道されていたが、そこからフィクションと現実との区別がつかなくなってしまったのではないか、という考察は、村上に限らず多くの識者によって語られてきた。しかしアニメや哲学や宗教はダメで「ちゃんとした物語」ならいいと考えているのだろうか。アレフの信者で村上春樹の作品が好きだった人だって、何人か思い出すことができるのに。

カルトに国立大の理系男性が多かった理由

村上に限らず、カルトに入る人は人生の何らかの大事な経験が欠如しているのではないか、という見方をする人は多い。これ以外にも家族関係に軋轢があった人が入る傾向があるのではないかとか、あるいは過去に反抗期がなかったのではないかという見方もある。しかし様々な人に接すれば接するほど、そんなことは関係ないのではないかと思う。

信者一人ひとりを見れば「普通の人」との違いはどこかにあるだろうが、そもそも百パーセント普通の人間などこの世界には存在しない。私自身は十数年この問題に取り組んできて、入信者とそうでない人の間に明確な違いを見つけることはできなかった。かつてはカルトに入る人は国立大学の理系の男性が多いと言われ、その傾向を生む理由が様々に論じられたが、最近来る相談は私大の文系の女性が大半である。あれは単に国立大学の理系の男性がたまたま多い時期があって、彼らが勧誘するから同じような人がたくさん入った、というだけだったのだろう。