そして国内では雇用創出という名目で軍の増強に着手する。1940年は大統領選挙の年であり、その夏ルーズベルトは、民主党が前例のない3期目の出馬を容認する流れになるがままにした。

口実はいかにもとってつけたようだったが、そんなことは問題ではない。共和党の対抗馬がダークホースの国際主義者ウェンデル・ウィルキーに決まったことを歓迎し、秋には精力的に選挙運動を展開する。そして1941年1月の3回目の就任式の前日、彼は敗れた競争相手のウィルキーをホワイトハウスに迎え、特使としてロンドンに派遣した。

チャーチル英首相の呼びかけ

このときウィンストン・チャーチルに手渡す親書を託すのだが、その親書には、アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローが1849年に書いた詩「船をつくる」の一節が引用されていた。ルーズベルトはおそらくこの詩を暗唱していて書いたものと思われる。

チャーチル像
※写真はイメージです(写真=iStock.com/justhavealook)

「乗り出そう、国という名の船に乗って! 乗り出そう、連邦は強く頼もしい! 恐怖に怯えながらも、未来への希望を捨てずにじっと耐えている人々がいる。汝がその命運を握っているのだ!」

リンカーンは南北戦争の初期にこの詩を読んだとき、「これは、そのような状況に陥った人々を勇気づけるために神が与えてくれた贈り物だ」と感激したという。そして今度は、ルーズベルトからチャーチルへの贈り物としてウィルキーに託されたのだった。

チャーチルはその8カ月前の1940年5月に首相に就任している。

フランスが降伏寸前でイギリス本土は空襲を受ける可能性が高かった時期だ。完成したばかりの短波ラジオ技術によって、シェイクスピアを凌ぐ規模で英語が世界を駆け巡るようになったのも、この頃である。

ラジオ出演したチャーチルは、ルーズベルトから贈られた詩の一節を読み上げたあと、「イギリス国民の名において」と語り出した。海の向こうではアメリカ国民もその声を聞いている。

「この偉大な人物、1億3000万の国民を持つ国において三度大統領に選ばれたこの指導者に私は何と答えただろうか」

そしてチャーチルは、鬼気迫る凄みのある声でゆっくりと言った。

「道具をくれ。あとの仕事はわれわれがやる!」

動き出した米国、不可侵条約を信じ切ったソ連

最も差し迫って必要な道具は「レンドリース(武器貸与)」であるという点でチャーチルとルーズベルトは合意する。

レンドリース法は1941年3月に議会で可決され、アメリカの防衛にとって不可欠だと大統領が判断したいかなる国にも軍事援助を行なうことが認められる。同法の恩恵を受けるのは主としてイギリスだと考えられたが、ルーズベルトは受益国を特定しないことにこだわった。

反対者たちは、これではソ連にも軍事援助ができてしまうと批判したが、それはあり得ないと思われたため、反論は一蹴された。だがルーズベルトはすでに在ベルリン大使館から、ヒトラーが1941年春にソ連侵攻を計画しているとの報告を受けていたのである。

チャーチルにも確認のうえ、ルーズベルトは駐米ソ連大使に警告を発するが、大使もソ連政府も感謝はしたものの何の行動も起こさなかった。それどころか不可侵条約を信じきっているスターリンは、日本とも同様の条約を締結している。