キーウに迫るロシア軍の爆撃や砲撃が激しくなり、研究所からわずか約1キロメートル離れた場所にも砲弾が落ちた。ロシア軍侵攻前日の2月23日に2人に造血幹細胞移植を実施していたため、翌24日に地下に移して治療を続けた。緊急治療を行う部屋の窓に土嚢を積み上げ、防空壕にした。地下の防空壕で治療は続けられた。
ロシア軍の攻撃で負傷者が国立がん研究所にも次々と運び込まれてきた。シプコ所長以下、医師や看護師は研究所にとどまり、通常の診療に加え、救急医療にも対応した。ロシア軍はシリアで病院を徹底的に破壊した。このため研究所では避難訓練を毎日のように行った。研究所内には緊急時に使う手作りの担架が今も用意されている。
「緊急時だからこそ医療を止めるわけにはいかない」
シプコ所長は「緊急時だからこそ医療サービスの提供を止めるわけにはいかなかった」と語る。侵攻開始から約2カ月の間、シプコ所長は研究所の7号室に泊まり込んだ。研究所内の1室の壁には白色の防護スーツとガスマスクが掛けられていた。「ロシア軍が化学兵器を使う恐れがある。ウクライナ政府はガスマスクを備えるよう強く勧告している」と説明した。
国立がん研究所にはロシア軍侵攻後、銃撃や爆撃で負傷した兵士や市民を治療する救急施設が設けられた。キーウ近郊までロシア軍が侵攻してきた4月初めまで目の回るような忙しさだったという。早速、救急施設の車イス1台に手渡されたばかりの「JINRIKI QUICK」が取り付けられた。救急医療の担当者は「本当に簡単に患者を移動できる」と笑顔を浮かべた。
実はこの研究所は1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故で放射線を大量に浴びた消防隊員115人の治療に当たり、骨髄移植で全員の命を救った。敷地内に2棟を増設する予定だったが、ロシア軍の侵攻で政府資金がストップし、国際社会からの寄付がなければ計画は頓挫してしまうという。
チェルノブイリ事故が起きた時、シプコ所長はまだ医師になっていなかったが、血液学を専門にするイリーナ・クリアチョク教授は「赤十字の仲介で同僚や子供たちとともに日本に招かれ、2カ月間、血液のがんをどう治療するか勉強した。多くの知識や手順を学び、大変役立った。今回も日本から車イスの補助具が届けられ、とても感激している」と話した。