江戸東京の“人気神”の多くは外様だった

それでは、宗教の経済学の観点から、江戸東京の宗教市場はどのように特徴づけられるだろうか。まず思い浮かぶのは、江戸時代、寺請檀家だんか制度によって、誰もがどこかの寺に檀家として所属するようになったことだろう。ある意味では、仏教が事実上の国教になったとも理解できる。

ただし、この政策の眼目は、寺院に民衆の戸籍管理を委託し、それと引き換えに檀家という経済基盤を与えることにあった。つまり、民衆統制のための行政上の施策であり、自家の葬儀や法要は所属寺院で行う必要はあったものの、民衆に特定宗派の信仰や教義を強制したり、所属寺院以外への参拝を禁止したりするものではなかった。その点で、北欧のプロテスタント、西欧のカトリック、英国国教会といった国教のあり方とは大きく異なる。

次に注目すべきは、徳川家康の入府以降、江戸東京が急速に発展したことだろう。開府当時の江戸には100軒ほどの茅葺の家がある程度で、現在の帝国ホテルや東京駅のあたりまで入り江が差しこみ、銀座も江戸前島えどまえじまという半島の突端に位置していた。これらを埋め立てながら、そこに外部からの人口を取り込むことで、江戸は発展してきた。

そして、外部から人や物が流入するのに合わせて、水天宮のような無数の神仏が到来した。現在でも芸能関係者からの信仰が篤い赤坂の豊川稲荷は大岡越前守によって三河から勧請されたもので、虎ノ門の金刀比羅宮は讃岐から分霊された。今は見る影もないが、江戸最大のはやり神である入谷の太郎稲荷は、水天宮の故郷である久留米藩に南接する柳川藩からやってきた神である。

「市内幾多の縁日中、其繁盛本社の右に出るものなし」と称された水天宮
「市内幾多の縁日中、其繁盛本社の右に出るものなし」と称された水天宮(『東京風景』1911年/国立国会図書館デジタルアーカイブより)

市場が活発だとサービスが充実するのは宗教も同じ

宗教市場という観点から捉え返せば、各地の大名屋敷が並ぶ江戸の街には、各地の神仏が集結していた。浅草寺やとげぬき地蔵といった土着の神仏も含めれば、さながら神仏の見本市といった様相を呈していただろう。そして、それらの神仏を消費したのが、常に増え続けた人口なのである。

そうした活発な宗教市場の中にあって、水天宮は、民衆が共感と同情をよせる安徳天皇にまつわる由緒、立地の良さ、子授け・安産という生活に密着したご利益などさまざまな要因が絡み合って、今日まで廃れることなく“顧客”を集め続けてきたと言える。

現在も、水天宮では、御子守帯以外にも、各種のお守りや犬をモチーフにした縁起物、同社オリジナルのお食い初め用のセットなども用意されている。また、インスタグラムなどのSNSで日々の様子が発信される。こうした宗教サービスの充実も、同社が、活発な江戸東京の宗教市場の中心に位置するものだからではないだろうか。

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