「自分を理解してもらいたい」「いい人でありたい」という若者が増えている。建功寺住職の枡野俊明さんは「“仮面”をかぶり続けているうちに、自分の本心が何かわからなくなってしまう人も多いのです」という。セブン-イレブン限定書籍『やめる練習』から、やっかいな自分と上手に付き合う禅の教えを公開する──。(第3回/全3回)

※本稿は、枡野俊明『やめる練習』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

理解してもらえないのが人間関係の常

人から理解してもらえないことは、寂しさや孤独をもたらします。しかし、そうした孤独や寂しさには多少なりとも甘えが含まれているかもしれません。なぜなら人が人を理解するのは、そもそも難しいことだからです。

自分のことをちゃんと理解して欲しいと強く望むのは、人としての未熟な面がどこかにあるせいかもしれません。

そもそもどんな関係であろうと、十分にきちんと理解してもらえないのが人間関係の常です。距離が近い関係ほど理解も正しくされていると思うのも違います。

たとえば身近な家族であっても、あなたのことをちゃんと理解しているでしょうか。自分のことをよく理解してくれていると思っても、よくよく観察するとその人の都合のよい解釈であなたを見ていないでしょうか。

建巧寺にて
写真撮影=永井浩
建巧寺にて

自分のことすら理解できていない現実…

他人のみならず、自分のことですら人はまともに理解していません。自分では自分のことをいちばんよくわかっていると思い込んでいますが、実のところそうとはいえないのです。

何かの拍子に「あれっ? 自分にはこういう面があるんだ」と感じたことはないでしょうか。そうなのです。あなたのなかには、海面下に隠れている氷山のように「あれっ?」と初めて気づく未知のものがたくさんあるはずです。

日常生活を送るなかではなかなか気づきませんが、思いがけない出来事に出くわしたりすると、意識の底のほうに沈んで隠れているものがひょいと顔を表したりします。

自分のことですらそうなのですから、ましてや他人から正しく理解してもらおうなどというのは、前提からして間違っています。