やがて卒業。舎弟のなかには芸能界に残り放送作家に転じた者もいるが、潮田は企業への就職を選んだ。

いくつか入社試験を受けたなかで、「面接に遅刻したのに内定をくれた」ソニーにそのまま入社。研修のあと、大阪へ赴任し営業マンとして働き始める。だが、前述のとおり2年ほどで辞めてしまった。

「結局、機械が好きじゃなかったんですよ」と振り返る。

死ぬかもしれないという充実感

実家に戻り、塾の講師をしながら次の一歩を探った。半年後、新聞広告で見つけたのが「農家と酒を飲む仕事です」と大書された、らでぃっしゅぼーやの求人だった。

春キャベツの出来について契約農家の石渡剛さん(左)と意見交換。

当時のらでぃっしゅぼーやは非営利団体から脱皮し、会社組織になってからほんの2、3年。まさに草創期のメンバーとして、潮田は存分に腕を振るい始める。

「お、潮田。あしたは高知へ行ってくれ」

入社したての潮田に、上司は次々と難しい仕事を割り振った。90年代初頭、有機野菜セットの宅配というビジネスモデルが大ヒットし、需要に供給が追いつかない状態だった。

当初の仕事は、有機低農薬栽培を引き受けてくれる農家を探し、全国各地を飛び回ること。しかしそのうちに、発注・仕入れや農家向けの作付けシステムをつくる仕事まで任されるようになる。

「寝る暇がないくらいでした。システム開発をしていたころは、朝帰宅して昼ごろ出社するような状態が半年くらい続きました。死ぬかもしれないと思いましたねえ(笑)」