ウクライナ旅行の前年、2005年に文芸春秋のスポーツ誌『Number』の別冊『Number PLUS 欧州蹴球記』で、ノンフィクション作家の高山文彦氏がシェフチェンコから、彼の祖国に対する思い、原発事故による体験などを取材していた。シェフチェンコは9歳のとき、チェルノブイリ原子力発電所事故で罹災りさいし、一家で避難、幼年時代を育った土地を離れて移住を余儀なくされたというのである。

ドニエプル川畔の教会
ドニエプル川畔の教会(筆者撮影)

この記事ではシェフチェンコと同じ姓で、ウクライナの人々から“国民詩人”として敬愛されているタラス・シェフチェンコについても言及されていた。

農奴の子として生まれたタラス・シェフチェンコは、絵の才能を認められて農奴から解放される。その後、シェフチェンコは、優れた詩作品も発表するようにもなるが、ウクライナ独立運動に加わり、皇帝を批判したという理由から流刑に処される。恩赦で釈放されてからもウクライナ語で詩を書き、絵も描き続けて、現在のウクライナ人から精神的支柱として敬愛されているという。高山氏によるインタビューでは、アンドレイはタラスの詩を口ずさんでいたはずだ。

ドニエプル川
筆者撮影
ドニエプル川

「ロシアンパブにいるのはウクライナ人なのか」

独立広場からそれほど遠くない街角に、タラス・シェフチェンコ記念博物館がある。小さな博物館だが、彼の絵を熱心に見つめる人々でいっぱいだった。

そういえばウクライナをめぐって、こんなことがあった。

キエフとオデッサを訪問する3、4年前、ドイツのどこかへフランクフルトかアムステルダム経由でドイツに向かったときのことである。成田からの機内で、私は通路側に座り、窓側には2人連れの外国人女性がいた。

長いフライトの途中から言葉を交わすようになり、彼女たちはキエフに里帰りするところだというのだった。そして二人は日本では、沼津のロシアンパブに勤めているのだという。私は「ロシアンパブにいるのはウクライナ人なのか」と感心したりもしたが、一人は金髪、もう一人は黒髪の女性たちの素朴な雰囲気に好い印象を受けていた。金髪で小柄な女性にパブの話を聞いていると、店ではこんな歌を歌うのだと、テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」を口ずさんでくれた。

ボルシチ
筆者撮影
ウクライナの伝統料理・ボルシチ

二人の名前を聞き、写真も撮ったはずだが、いまとなっては名前を忘れてしまい。写真も見つからない。あれから15年以上経ったいま、彼女たちは40歳前後だろうか。彼女たちがもしいまキエフにいるのだとしたら、どんな様子で暮らしているのか気が気でならない。