DNAから声紋情報までをむしり取る「健康診断」
メイセムにとって、自由な会話を奪われるのは耐えがたいことだった。言葉とアイデアに満ちた彼女の豊かで色とりどりの心は、水に飢えた花のように枯れていった。
「中国から早く逃げだしたくてたまりませんでした」と彼女は言った。恋人のアルマンに電話をかけ、テキスト・メッセージを送りたかったが、メイセムはその衝動をなんとか抑え込んだ。トルコの番号に電話すれば、政府からさらに怪しまれることはまちがいなかった。
1カ月後、政府からの新たな通知をもってガーさんが戸口にやってきた──全員で地元の警察署に出向き、“検査”を受けろ。一家が怪しいと判断されたため、こんどは家族全員への“検査”が義務づけられたのだった。
当局はやがて、このプログラムを「全民健康体検」と名づけた。「身体検査、採血、声と顔の記録、DNAサンプルの採取が行なわれます」とメイセムは説明した。「地域の安全のためという名目です。警察は全員のDNAデータを必要としていた。今後も引きつづき海外に行きたいのであれば、検査を受けるしかありません。さもないと、新しいパスポートを取得することはできませんからね」
メイセムが警察署に着いたとき、慌ただしい待合室の椅子には数十人の人々が坐っていた。赤ん坊が泣き、母親たちが心配そうな表情を浮かべていた。健康診断を行なうのは、医療従事者ではなく警察官だった。
長い待ち時間のあと、やっとメイセムの名前が呼ばれた。警察官に導かれ、“患者”でいっぱいの診察室に行った。そこは、医療プライバシーの欠片もない場所だった。
はじめに身長と体重が測定され、視力が検査された。それからメイセムは、採血に同意するかどうか尋ねられた。が、現実問題として拒否できるはずもなかった。
選択の余地などなかった。まだ公表こそされていなかったものの、自身のDNA情報がなんらかの生体認証データベースのために警察に引き渡されることもメイセムはわかっていた。
室内にひとりだけいる医療従事者の助けを借りつつ、警察官たちは静脈を探して針を刺そうとしたが、失敗した。代わりに彼らはメイセムの指に針を刺し、小さな医療用チューブに血液を流し込んだ。そのDNA採取装置はアメリカの医療技術企業サーモ・フィッシャー・サイエンティフィックが製造したもので、同社は製品を新疆ウイグル自治区に直接販売していた。
つぎに男性警察官にべつの部屋へと案内されたメイセムは、一連の検査を受けた。まず、カメラのまえに立ち、警察のデータベース記録用にさまざまな表情を作るよう言われた。笑顔、しかめっ面、左右の横顔にくわえ、さらに8つのアングルから写真が撮影された。そして最後に、「国家安全保障」についての文章を声に出して読むよう指示された。
「3つの悪とは、テロリズム、分離主義、宗教的過激主義です」とメイセムは素直に読み上げた。こうして、警察は彼女の声紋情報を手に入れた。
3600万人が「健康診断」を受診
メイセムは、警察官が幼児の頭と足から採血するのを目撃した。10分ほどで検査を終え、彼女は家族を待った。家に戻ったときにはみな疲れ果て、恐れていた。しかし、居間のカメラに見られているという恐怖から、その日の経験について正直に話し合うことはできなかった。
不審者と判断されたメイセムは、医療プログラムの一環として強制的にDNAを抽出された。彼女が参加した時点では、このプログラムは新疆だけで行なわれていた。のちに、メイセムがこの医療プログラムに参加したもっとも初期の集団のひとりであるとわかった。その年の9月、政府はより大規模に健康診断を展開しはじめた。最終的に3600万人が検査を受けたと国営の新華社通信は報じた。