安全確保の義務が付随的に認められるケースは他にもある。たとえば会社と従業員との雇用契約でも見られる。会社と従業員は、従業員が労働を会社に提供し、会社が労働に対して賃金を支払うという関係が主要な内容になるが、これだけにとどまらない。

雇用契約書に書いていなくても会社は従業員に対して「安全配慮義務」と呼ばれる義務を負う。従業員が会社の業務の最中にけがをしたり、ハラスメントなどに遭って身体的、財産的、精神的に損害を負ったりすることのないように、会社は従業員の労働環境を保全しなければならないという義務である。会社が安全配慮義務違反で従業員に対し損害賠償責任を負うとされた裁判例は枚挙にいとまがない。

「無差別殺傷事件を防ぐ義務」まで負わせられるのか

鉄道における安全確保の義務は車内での安全確保も含まれる。しかし、車両や線路の維持管理上の問題に起因して乗客が車内でけがをしたという鉄道会社の落ち度が容易に認められる場合はともかく、乗客による無差別事件が発生した場合にも鉄道会社は安全確保を怠ったとして被害者に対する賠償をしなければならないのだろうか。特に加害者被害者双方に原因のあるような事件ではなく、無差別に無関係な人を殺傷するような事件を防ぐ義務があるかどうかということである。

鉄道車両は走行中閉鎖空間となる。列車走行中に乗客がドアを勝手に開けて車外に出ることはできず、仮に列車内で無差別事件が発生しても逃げ場がない。そうすると、会社の従業員に対する安全配慮義務と同じように、走行中の列車内で乗客による無差別事件が起きないようにする義務が鉄道会社にはあり、無差別事件が起きて被害を被った乗客に対して鉄道会社が賠償義務を負うという考え方も出てきそうである。

しかし、会社と従業員、鉄道会社と乗客とのそれぞれの関係は異なる。

会社と従業員の関係は人的関係が濃い。会社は労働時間中、従業員を支配して業務命令をし、従業員はその命令に従う。従業員が会社に無断で勝手に職場を離脱することは許されない。会社は労働時間中、従業員の生殺与奪を握っており、したがって、会社は従業員が労働災害に遭わないように常に配慮をするべき立場にある。

東京の通勤者
写真=iStock.com/xavierarnau
※写真はイメージです

どんな乗客かの把握も、拒否もできない関係性

一方で鉄道会社と乗客との間には、会社と従業員ほどの支配従属関係がない。

会社は従業員の個性や特性、能力を把握するべき立場にあるが、鉄道会社は乗客の個性や特性、能力は把握していない。ましてや思想や趣味嗜好しこう、性癖など知る由もない。鉄道は公共交通機関であり、不特定多数の人を輸送する立場にある。会社は誰を従業員として雇用するか選択する権利があるが、鉄道会社は原則として乗客に対して輸送拒絶をすることができない(鉄道営業法第6条第1項、第2項)。

信楽高原鐵道での列車衝突事故(1991年)や福知山線列車事故のように、明らかに鉄道会社の運転規則違反がある場合はともかくとして、乗客の1人が起こす車内での無差別事件に対して、鉄道会社の安全配慮義務違反を問い、鉄道会社に責任を負わせるのは、現時点では難しいというべきであろう。