人の心をつかむ切り札は“フルネーム”

相手のフルネームを
頭に叩き込め。
親近感、信頼感が生まれる。

田中角栄は官僚の経歴などを頭に入れておき、それを存分に“利用”、これを有力な武器として官僚を掌握したものだった。

しかし、そのうえで田中が“切り札”にしていた手法は、相手の名前をフルネームで覚えていたことだった。

人間は不思議なもので、姓だけで呼ばれるより、フルネームで呼ばれることで、妙な親近感、信頼感を覚えるものである。

大正時代にわが国10人目の総理大臣となった「平民宰相」の原敬は、自分を支持する県市町村議会の議員の名前を、すべてフルネームで暗記していた。自分の選挙の手足となる彼らと向き合うときは、相手をまずフルネームで呼びかけ、親近感をより盛り上げたというエピソードもある。

一方、田中もこの“手”をよく使った。記憶力が抜群の田中は、10年近く会っていない選挙区のバアサンに会っても、たちどころに例えば「新田トラ」さんなどと呼びかけ、相手を感慨させてしまうことが多々あった。「新田トラ」さんは、あの田中が自分の名前を10年近く経っても覚えていてくれたと感激、選挙にでもなれば隣近所から選挙区内の知り合いまで、「田中先生に是非1票」と頼んで歩くことになるのである。こうしたことがあるから、田中の選挙区は強力地盤になったということだった。

「そんなことは分かっている。下のほうの名前だ」

さて、フルネームについてだが、先の原敬より、じつは田中が一枚上手であった。フルネームと言われても、物忘れをすることもある。ノドまでは出かかっているが、名前が出てこない。ところが、田中はこんなやりとりのなかでフルネームを引き出したのである。

「やあ、しばらくだな。元気か。あんたの名前が出てこんのだ」「鈴木ですよ」「そんなことは分かっている。下のほうの名前だ」「一郎です」「そうだ。思い出した。鈴木一郎さんだった」

なんていうことはない。フルネームすべてを忘れてしまっていたのだが、下の名前だけを忘れたフリをして、フルネームを引き出してしまった凄いテクニックである。あとは、記憶力抜群の田中である。「鈴木一郎」とのこれまでの関係を思い出すことに、時間はかからない。

「たしか、息子さんが二人いたな。もう嫁ももらっただろう」などと一気に親近感を増幅させ、先の「新田トラ」さん同様、「鈴木一郎」さんもまた新たに田中支持への思いを強くするといった具合になっていった。

しばらくぶりの相手をフルネームで呼ぶことは、なかなかの効果があることを知っておきたいものだ。うまくいかなかった人間関係が、これで氷解する可能性がある。