山田の座右の銘は「無欲は怠惰の基である」。日本資本主義の父、渋沢栄一の言葉だ。1時間泳ぐだけでも疲労困憊となるのに、もっともっとと泳ぎ続ける。こうして東京パラリンピック代表が見えてきたとき、哀しい出来事が山田を襲う。肺がんを患っていた父が手術3日前に自宅で倒れ、命を失ってしまうのだ。すでに父はコーチの野田に「私がいなくなっても美幸は大丈夫。あの子ならやれます」と言い残していた。

自分を支え続けてくれた父がいなくなった。山田の悄然は言葉に表せないくらいのものだったろう。私は何のために泳ぐのか。それは父が喜んでくれるからだ。その父がいなくなった。ならばどうして泳ぐ必要がある? 泳ぐ意欲が失せ、プールに行くこともなくなった。

しかし山田を技術指導する岡野高志は必ずや戻ってくると信じていた。もちろんその気持ちは野田も一緒だったろう。

水泳選手
※写真はイメージです。(写真=iStock.com/Juanmonino)

果たして、山田はプールに戻ってきた。
「水泳が好きなんです」
  しかし、戻って来れたのはそれだけではない。水泳を続けること、そして東京パラリンピックでメダルを獲ること。それが父の願いであることを、山田は休んでいる間に心底思い知ったのである。

水の中こそ山田は美しさを輝かせ、幸せをつかみ取ることができる。そんな父の思いを山田自身が知った瞬間だったのだ。

猛練習の末に自分だけの泳ぎを身につけた

プールに戻った山田は休んだ分まで取り戻そうと猛練習を重ねた。自由形でタイムも上がっていたが、障害の重度判定でS2になると、メダルを現実のものとするために、競泳種目を背泳ぎに変えた。山田自身は背泳を苦手としていたが、コーチたちを信じた。

両腕のない山田の泳ぎの頼りは長さの違う両足でのキック。そのキックの推進力を上げるために、左足は膝下の外側で水を蹴る横の蹴り、右足は足の裏側で水を蹴る縦の蹴りだ。
  左右違った動きをマスターしてスピードアップを図った。さらに左右のキックの違いで斜めに泳いでしまいやすいところを、頭を傾けて真っ直ぐに進めるように工夫した。しかも両肩を激しく回して水流を作って推進力に変えていった。やってみればわかるが、左右の足の動きを変えて泳ぐだけでも至難の業。山田は猛練習によって自分の技としたのだ。

そこには障害者だからと言って決して諦めない山田の姿勢が見える。野田や岡野たちコーチ陣の指導や支えも凄いものがあったろう。小さな子供にかける大人たちの無私の情熱。まったく頭が下がる。

障害があるから諦めるのではなく、障害があるからこそできることを工夫してベストを尽くす。そうしたときに、その人の障害は障害ではなく、特別な個性となって光り出すのだ。